魚津神社 (魚津市)

富山県にある、魚津神社(魚津市) を掲載しました。

富山県魚津市にある。
北陸本線・魚津駅の南西1.5Km、
富山地方鉄道・電鉄魚津駅の北西300mほどの中央通りに鎮座。
鴨川にかかる神明橋の近く、中央通り商店街の西端付近に
路地の入口のような参道入口があり、神明鳥居が立っている。

鳥居をくぐり参道を進むと整備された広い境内。
参道を進むと石鳥居が立ち、鳥居脇に「魚津神社」と刻まれた社号標。
さらに進むと、朱の立派な社殿がある。
拝殿は銅板葺入母屋造。本殿は流造。

参拝は十月の雨の早朝。
富山から長野へ戻る途中に立ち寄ってみた。

当社は、昭和三十一年(1956)九月十日の魚津大火によって焼失した
魚津市街地に鎮座していた5つの神社を合併させて
昭和四十年六月に新築再建された神社。
魚津市復興のシンボルのような神社なのだと思う。

上記のように、当社は、
郷社神明社、杵築社、稲荷神社、火之宮神社、市姫神社の五社を合併した神社。

天照皇大神を祀る神明社は、文武天皇大宝二年(702)三月十七日の創祀。
当初は日栖宮と称していたが、後に神明社と改称された。
明治六年郷社に列した。

当社の神紋は五つ巴紋。
合併された5つの神社を表わしているらしい。
通常の巴紋と違い、中央に星があるのが、現在の魚津神社ということだろうか。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:03 午前

弓崎神社 弓立神社 (上田市)

長野県にある、弓崎神社(上田市) を掲載しました。

長野県上田市にある。
上田駅の西6Kmほどの小泉に鎮座。
城山(933m)の南東麓、浦野川のほとりに境内がある。

境内は南東向き。
浦野川沿いの道路に面しているが、山を背にしているのだろう。
境内入口に鳥居が立っており、扁額には「弓崎神社」。
鳥居をくぐると、斜面を利用した境内。
階段上に神楽殿のような瓦葺の拝殿がある。
拝殿の奥には幣殿。幣殿の左手には神饌殿が廊下で繋がっている。
幣殿の後方に、垣に囲まれて流造の本殿がある。

創祀年代不詳。
『小縣郡史』によると、奥州の賊に対する防衛として
朝廷より派遣された官人が、鎮守の神として八幡宮を勧請した古社。
その官人は藤原勝海の苗裔である出浦某とあるが、
坂城町に居城した村上氏の一族である出浦氏の祖だろうか。
当地周辺は出浦の里と呼ばれていたらしい。

應永十八年(1411)八月弓立山(弓楯山)の頂から、
その支峯である弓崎山に遷座したらしい。

弓崎神社から浦野川に沿って北東へ700mほどの位置に
旧村社・弓立神社(上田市)が鎮座している。
詳細な由緒は確認できていないが、
天照皇大神、應神天皇、十二大神を祀っている。

社号から弓立山の神を祀っているのだろうと想像できるが、
弓崎神社と関係があるのだろう。
ひょっとすると弓崎神社と元は一つだったのかもしれない。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:38 午後

額神社 (かほく市)

石川県の額神社(かほく市)を掲載しました。

石川県かほく市にある。
七尾線高松駅の西1Kmほどの高松に鎮座。
境内の後方には、のと里山海道が走っており日本海のすぐ近く。
227号線に面して東向きに境内入口がある。

道から少し奥まった場所に鳥居が立ち、
鳥居の左脇に「額神社」と刻まれた社号標。
鳥居扁額にも「額神社」とある。

鳥居をくぐると広い境内。
参道脇に由緒石碑や鎮火祭の由来などが刻まれている。
当地は加賀と能登を結ぶ交通の要衝であり
宿場町であったため民家が多く火災も多かったようだ。
当時、赤飯を神前に供え、祭の後に家々に赤飯を配っていたが
民家が増えたため赤飯ではなく清酒を配ったところ
大火災が発生したため、神罰を畏れて赤飯に戻したという。

参道を進むと神馬像があり、巴紋と引き両の紋が付けられていた。
さらに進むと鳥居があり、扁額には「額明神」。
鳥居をくぐると社殿がある。拝殿は瓦葺入母屋造。
後方の本殿は一段高い場所にあり、銅板葺流造。

創祀年代は不詳。
当社は横山鎮座の賀茂神社の境外摂社で、
金津庄高松の鎮守として崇敬された神社。
かつては古宮と呼ばれる地に鎮座していたらしい。

当地は加賀国と能登国を結ぶ街道で、
河北潟より七窪を経て当社に至る道には
旅人を騙す「おまん狐」が出るため、
街道の南に天星神(七窪神社)を、中程には地蔵堂を、
北に野の神(当社)を祀って旅人の安全を祈願したという。

当社に合祀されている櫻井三郎左衞門は、
天保年間に創建され、嘉永二年(1849)境内に遷座された英之社の祭神。
社殿老朽化のため解体され本殿に合祀された。

櫻井三郎左衞門は天正十二年(1584)末森合戦にて
前田利家軍勢の道案内をつとめた功により、
高松の村民の宅地の税を免除される恩恵を得た人物。
また、羽咋郡太田から大海川へ水を引き、
加賀・能登の田地四百八十三町に灌漑の利を与えたとも伝えられている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:46 午後

久が原東部八幡神社 久が原西部八幡神社(大田区)

東京都大田区にある、久が原東部八幡神社と久が原西部八幡神社 を掲載しました。

久が原東部八幡神社
久が原西部八幡神社

東京都の大田区にある。
池上線・久が原駅の東1Kmほどの久が原二丁目に鎮座。
小学校の東。宮坂と呼ばれる坂道の途中に境内がある。

境内入口は東向き。階段を登ると鳥居があり、
鳥居の右手に「久が原東部八幡神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、正面に社殿。
入母屋造の拝殿は、茅葺の上を銅板で覆っているらしく、
文化二年(1862)建立の大田区文化財。
拝殿の後方には流造の本殿がある。

社殿の右手は砂利の駐車スペースがあり、
神楽殿や末社の稲荷神社(宇迦之御魂命)が祀られている。

久が原には二つの八幡神社があり、当社は東の八幡さま。
正式名はともに「八幡神社」で鳥居の扁額にも「八幡神社」とあるが、
区別のため、東にある当社は久が原東部八幡神社と呼ぶ。

参拝は三月初旬の午後。
東向きの境内は、西日に向かって参道を進むことになり、
写真が逆光になって撮りにくい。

社伝によると、天平神護元年九月(765)、
豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請し、
武蔵の南端久が原台地の住民の鎮守として祀られたという。

その後、徳川氏が入国に際して、
久が原は東側の馬込領と西側の六郷領に二分されてしまい、
当地の八幡神社も、馬込領鎮守の八幡神社(当社)と、
六郷領鎮守の八幡神社(久が原4丁目鎮座)に別れてしまい、
祭祀も別々の氏子によって行われているようだが、
ともに明治六年村社に列した。

久が原東部八幡神社の北西300mの久が原四丁目に西の八幡さまがある。
東部八幡神社の西にある小学校から北へ向かって150mほど坂道を下る。
近くに幼稚園があるようで、迎えのお母さん達の自転車が多かった。

こちらの八幡神社も境内入口は東向き。
階段途中にある社号標には「久が原西部八幡神社」。
階段を登ると鳥居があり、鳥居をくぐった参道右手に手水舎。
参道正面に美しい朱の社殿がある。

拝殿は入母屋造銅板葺き。本殿は流造。
境内由緒石碑によると昭和五十四年に造営されたコンクリート造のようだ。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:49 午後

大森神社 (高崎市)

群馬県の大森神社(高崎市)を掲載しました。

群馬県高崎市にある。
高崎駅の北西15Kmほどの下室田町に鎮座。
旧榛名町にあり、高崎市役所榛名支所の前。
鳥川の支流・滑川のほとりに境内がある。

29号線のそばに境内があり、境内入口は南向き。
朱の両部鳥居があり、鳥居の脇に「大森神社」と刻まれた社号標。
鳥居の扁額には「正一位大森大明神」と書かれていると思うが、
「森」が、木の下に×のような文字になっている。

鳥居をくぐると正面に美しい社殿。
入母屋造の拝殿の後方に、流造の本殿。
社殿の色は赤だが、屋根は黒っぽい色で、コントラストが美しい。
そういえば鳥居も上部は黒だった。

社殿の前に陶器の狛犬が置かれている。
社殿後方の摂社・金鑽神社にも同様の狛犬が置かれているのだが、
当地と陶器は関係あるのだろうか。

広い境内だが地面はアスファルトで覆われており、
木々も少ないので、非常に開放的な境内。
境内後方には川が流れ、吹き抜ける風も心地よい。
そんな雰囲気の境内。

『全国神社名鑑』によると、寛永十八年(1641)、
第二代上野安中藩主・井伊直好生誕の産土神として建立され、
社領として石高八石一斗六升が寄進された神社。

『平成祭データ』によると、
大森渓の日影の社と呼ばれていた古社が当社の前身らしく、
弘仁六年(815)にはすでに祀られていたという。

『国内神名帳の研究』の上野国神名帳の項では、
「従五位上 大木明神」の所在地が(行方村か、下室田村)と記され、
下室田の当社・大森神社が大木明神である可能性を示唆している。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:34 午後

冨塚八幡宮 (横浜市)

神奈川県にある冨塚八幡宮(横浜市) を掲載しました。

神奈川県横浜市にある。
戸塚駅の南西1Kmほどの戸塚区戸塚町に鎮座。
1号線がカーブしている場所、1号線の北側に境内がある。

社域は小さな丘。
丘の南側に境内入口の鳥居があり、
鳥居の扁額には「八」が鳩になっている「八幡宮」。
鳥居の左手に「郷社冨塚八幡宮」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると正面に神輿殿があり、
神輿殿の脇の階段を上ると丘の中腹に社殿がある。

拝殿は銅板葺入母屋造平入。
拝殿の後方には流造の美しい本殿がある。

社殿の後方、丘の頂上部には、
当社祭神・富属彦命の墳墓と伝えられる古墳があり、
「冨塚」と呼ばれている。
この「冨塚」から戸塚の地名が発祥したらしい。
冨塚の前には「冨塚八幡宮九百年式年記念 冨塚乃碑」と
刻まれた石碑が立っている

ところで、当社の社号は「冨塚八幡宮」だが、祭神名は「富属彦命」。
「冨」と「富」を何か理由があって区別しているのか、
それともどちらでも良いのか、気になって来た。

社伝によると、後冷泉天皇の康平五年(1062)、
前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、
当地の富樛木の森に宿泊した時、
霊夢にて応神天皇と富属彦命の御神託があり、
その加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝し
奉賽のため、延久四年(1072)社殿を造り、
兜八幡の玉を以って、八幡神を勧請したのが当社の創祀。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:11 午後