高階社 (氷見市)

今年最後の更新。

富山県にある、高階社(氷見市) を掲載しました。

富山県氷見市にある。
氷見線・氷見駅の北西13Kmほどの一刎に鎮座。
160号線を北上し、余川川に沿って304号線・70号線を北西へ。
一刎に入って、ウネウネと上へ、奥へ進んでいくのだが、
言葉では上手く説明できない場所に、道路に南面して参道入口がある。

当社には鳥居が無く、石段の両脇に幟を立てる旗竿が立っているだけ。
僕は注意しながら車を運転していたつもりだったが社前を行き過ぎてしまい、
しばらく上って引き返した時に入口を見つけた。

十段ほどの石段を上ると、以後は山道。
地図で見ると200mほどの土の道を10分ほど上ると、
参道両脇の二本の木の間に注連縄。
この木が鳥居の役目をしているようだ。

この鳥居の木の注連縄をくぐると参道奥に社殿が見える。
当初、鬱蒼と茂る木々や雑草に覆われて朽ち果てた社殿を想像していたが
参道も歩きやすく、雑草も刈り取られており、
境内の木々も処理されているようで、スッキリとした境内だ。

社伝によると、天平年間、
石動山の伊須流岐比古神社(五社大権現)にならって、
能登・越中国境の高峰に五社を建て、
正徳書上帳に「五社大権現、能州石動山社人清水伊勢守相勤来」、
文化二年社号帳に「五社、清水丹波守持宮」とある神社。

かつては日之宮とも称していたが、
地震のために氏子人家が滅亡したため、草岡神社に合祀した。
この草岡神社が、式内社・草岡神社の論社となっているようだ。
後、人家が増えて来たので、江戸時代に現在地に社殿を建てて高階社とした。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:33 午後

護國八幡宮 (小矢部市)

富山県にある、護國八幡宮(小矢部市) を掲載しました。

富山県小矢部市にある。
北陸本線・石動駅の南西2Kmほどの埴生に鎮座。
西には石川県との県境、古戦場として有名な倶利伽羅峠のある場所。
42号線から西へ入った場所に南東向きの境内がある。

参拝は10月。
当日はメルヘンおやべ道の駅で車中泊し、
暗いうちに目覚めたので、とりあえず当社に向かった。
当社前にも、「倶利伽羅源平の郷・埴生口」という
小さな道の駅のような休憩施設があったので、
その駐車スペースに車を止めて、再度仮眠。
少し明るくなり始めた頃に参拝を開始した。

参道入口には、「八幡宮」の扁額のあるピンク色の鳥居。
鳥居をくぐり参道を進むと、参道左手に大きな源義仲の騎馬像がある。

参道を進むと境内入口の鳥居。
鳥居の右手に授与所があるが、まだ開いていなかった。
その脇に、「鳩清水」の手水鉢。
案内によると、倶利伽羅山中からひかれた水で、
源義仲(木曽義仲)が当社で戦勝祈願の折り、
白鳩が飛来し、その導きによって源氏勢は清水を得たという。

鳥居をくぐると、蓮沼城主・遊佐慶親寄進の103段の参道石段。
かつては108段あり、108の煩悩を踏み消して神に近づく意味があった。

石段を上ると広い砂利の境内。
境内中央に拝殿・幣殿があり「護國八幡宮」の扁額。
後方には釣殿と流造の本殿。すべての社殿は桃山時代様式で旧国宝。
現在は国指定重要文化財となっている。

本殿は、慶長五年、前田利長が大聖寺出陣の際に戦勝祈願し帰還後に寄進。
幣殿と本殿をつなぐ釣殿は、慶長十六年、病気平癒祈願のため寄進。
拝殿・幣殿は、元和八年、前田利常夫人天徳院の産後平癒のため寄進されたもの。

社伝によると、養老二年、豊前国宇佐宮から勧請された古社。

古くから文教の祖神、殖産の神として崇敬され
通称は埴生八幡宮と称されている。

治承四年、平家追討の令旨に応じて信濃で挙兵した木曽義仲は、
寿永二年、倶利伽羅峠で二倍の軍勢の平維盛の大軍と対峙し、
埴生に陣を取って、当社に戦勝を祈願。
『平家物語』では、この時、雲の中から三羽の山鳩が飛来し
源氏の白旗の上にひらひらと翻ったとあり、この瑞兆を得て大勝。
『源平盛衰記』には、四・五百頭の牛の角に松明を燃やして
平家の陣中に放ったとある。

一般に「護国」の名を持つ神社は、
戦争などの国事に殉じた英霊を祀る神社だが
当社の「護国」は、それとは異なる。
慶長十三年頃、地方の凶作が続いたため、前田利長が当社に祈願。
霊験により凶作が打破されたため『護国』の尊号を奉ったもの。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:34 午前

白山社 (氷見市大境)

富山県にある、白山社(氷見市大境) を掲載しました。

富山県氷見市にある。
氷見駅の北10Kmほどの大境の港に鎮座。
富山湾を右手に見て、160号線を北上し、大境で東へ入ると、
小さな漁港の奥に鳥居が立っている。

境内入口は南西向き。
鳥居の右脇に「白山社」と刻まれた社号標。
十数段の階段を上ると神明造の拝殿があるが、
当社の特徴は、拝殿背後の洞窟。

洞窟の標高は四メートルで、約七千年前、
縄文海進期に波の浸食によって形成されたもの。
洞窟の入口は南西向き、高さ約八メートル、幅約十六メートル、
奥行き約三十四メートルあり、洞窟内に本殿がある。

大正七年(1918)六月、白山社改築のため土砂を取り除いた際に、
人骨、土器、石器等が出土し、発掘調査されて、
大正十一年(1922)に国の史跡指定を受けた。

洞窟内は、落盤によってできた六つの地層が、時代順に区別されており、
縄文時代と弥生時代のどちらが古いかを実証した貴重な遺跡らしい。
本殿は、第3層の基壇の上にある。

創祀年代は不詳。
古くより、大境の産土神として崇敬された神社。

往古は、もっと北の九殿の地に奉祀されていたが、
中古、現在地に遷座されたらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:26 午前

瀬戸菅原神社 (かほく市)

石川県の瀬戸菅原神社(かほく市)を掲載しました。

石川県、能登半島の付け根のかほく市にある。
七尾線の免田駅の南東に直線で2Kmほど、道程だと3~4Kmほど。
日本海にそそぐ大海川に沿って走る227号線の北側に境内がある。

227号線は大海川の土手道のようで、
道路から少し下った場所に鳥居がある。
鳥居の脇には「村社瀬戸菅原神社」と刻まれた社号標。
境内入口は南向きだが、鳥居をくぐり参道階段を上ると、西向きの境内。
境内の西側の道路から車で境内に入ることができ、
砂利の境内には、数台の車が停まっていた。

境内の東側、一段高い場所に社殿があり、階段下には手水舎。
境内由緒書きによると、平成十六年(2004)の台風で倒壊した
河合谷の御山神社の御神木で手水舎が作られたらしい。
なるほど少し神々しいかな、などと考えながら階段を上ると拝殿。

瓦葺入母屋造妻入りの拝殿の後方、少し高い場所にある本殿は覆屋の中。
『式内社調査報告』によると、本殿は流造らしいが、
『式内社調査報告』に載っている昔の拝殿の写真は平入りで、
昭和六十二年(1987)の社殿の改築が行われたらしい。

創祀年代は不詳。
往古より大海の庄、瀬戸ケ口に鎮座し
大海荘十二カ村の総社として崇敬された神社で、
式内社・瀬戸比古神社の論社。

養老三年、僧泰澄が参籠して祈願したと伝えられ
後に真言宗系修験の社となった。

瀬戸の社名の通り、往古から水戸神・速秋津比古神を祀っていた。
昔は、この辺りまで日本海が迫っていたと考えられている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:24 午後

金王八幡宮 (渋谷区)

東京都渋谷区にある金王八幡宮(渋谷区) を掲載しました。

東京都渋谷区にある。
渋谷駅の東500mほど、六本木通りから南へ入った場所に境内がある。
境内は南東向き。道路に大きな鳥居が立っている。

鳥居をくぐり参道を進むと突き当たりに境内入口。
階段の右手に「金王八幡宮」と刻まれた社号標。
階段を上ると石鳥居があり、赤い神門をくぐると境内。
参道左手に手水舎があり、
参道正面に入母屋造の赤い拝殿がある。

拝殿の前に「渋谷城の砦の石」が置かれている。
この辺りは平安時代末期から渋谷氏一族の居館(渋谷城)跡だったが、
大永四年(1524)、北条氏により焼き払われたらしい。
この渋谷氏居館が、渋谷という地名の起り。

狛犬の台や賽銭箱、社殿には三つ巴紋が付けられている。
三つ巴は、八幡宮に多い紋で、当社の神紋も巴紋。

参拝は東日本大震災のの当日。
渋谷から新宿、池袋へ北上する途中、
高田馬場で震災に遭遇した。

社伝によると、第七十三代堀河天皇の御代、
寛治六年(1092)正月十五日、渋谷氏の祖・河崎土佐守基家の創祀。
一説には、康平六年(1063)、石清水八幡宮よりの勧請とも伝えられ、
矢盛ノ庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一木、今井。)の産土神。

基家の子・渋谷重家夫妻が、当社に子授け祈願した時、
八幡神の霊夢により永治元年(1141)八月十五日に金王丸が誕生。
金王丸十七歳の時、源義朝に従い保元の乱に出陣。
平治の乱の後に出家して義朝の御魂を弔った。

元は渋谷八幡宮と称されていたが、
この金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになった。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:06 午後

豊栄稲荷神社 (富山市)

前回と同じ名前の神社。

富山県にある、豊栄稲荷神社(富山市) を掲載しました。

富山県富山市にある。
富山駅の西3.5Kmほどの茶屋町に鎮座。
神通川を渡って1Kmほどのところにある呉羽山に西端、
富山観光ホテルの近くに境内がある。

境内入口は道路に面して東向き。
朱の大きな鳥居が立っており、
左手には「豊栄稲荷神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると正面に黄色っぽい朱の社殿がある。
拝殿は銅板葺き。本殿は拝殿内にあるようで、
拝殿内に入ると、正面に美しい朱色の扉が三つ並び、
左から、「成就天満宮」「豊栄稲荷神社」「薬祖社」と
三つの扁額が掲げられている。
摂社・成就天満宮と摂社・薬祖社は本殿相殿に祀られているようだ。

拝殿の手前、境内の左右に境内社の祠が一つずつ。
左の褐色の祠が神明宮、右の朱の祠が呉羽社。

社伝によると、
宝永元年(1704)、富山藩二代藩主・前田正甫公が
千石蔵(現在の千石町)の隣接地(旧星井町稲荷高)に社殿を造営し、
伏見稲荷大社の御分霊を祀り、富山藩の五穀豊穣と殖産振興を祈願。
歴代の藩主が祭られた藩祭の神社であった。

『式内社調査報告』に、式内社・多久比禮志神社の論社として
五福の呉服神社の名前が載っていた。
ただし、現在、五福には呉服神社という神社は存在していないようで、
地図などでそれらしい社を探していたところ、
道路を挟んで五福町に隣接している地に鎮座する当社の境内に
呉服女を祀る呉羽社を見つけたので参拝してみた。

当社は昭和になって呉羽山に遷座してきた神社なので
ひょっとすると、以前から地主神として呉服女を祀った祠があり
その地に遷座し、境内社としたのかもしれないと思ったが、
社務所で話を聞いたところ、そういう話はないらしい。残念。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:08 午前