天香山神社 (松阪市)

三重県の天香山神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東8Kmほどの保津町(ほうづちょう)に鎮座。
60号線から北へ入った場所。光安寺の西側に境内がある。

境内入口は西向き。
鳥居の左手に「式内天香山神社」と刻まれた社合標が立っている。
鳥居をくぐると正面に社務所。左手(北)へ進むと当社の社殿。
拝殿の後方、垣の中に神明造の本殿がある、簡素な神社。

参拝は三月中旬の日の午後、というか夕方。
西日が射して、ややオレンジっぽい色の境内だった。

当社は明治四十二年二月二日に六根の大国玉神社に合祀されたが、その後、氏子の総意によって昭和十年三月二十七日に古社地に分祀再興されたもの。

創祀年代は不詳。
当社は森田吉ェ門宅内に祀られていた耕作の宮という小祠が、明治三十六年一月九日に村社宇気比神社(八王子)境内に移転合祀され、さらに明治四十二年に大国玉神社に合祀された神社。

その耕作の宮と称する小祠が、式内社・天香山神社の論社の一つ。
耕作(こうさく)の宮は古くは高崎(こうさき)宮と呼ばれ、高崎は香山(こうさん)の転化であるとして天香山神社であるという。

耕作の宮(高崎宮)の祭神は高嵜姫。
当社の北に、皇大神宮に奉る神御衣を織る御機殿の鎮守の神を祀る神服織機殿神社があり、桑の木を天香山に植え養蚕し、その絹糸で天照大御神の衣を作った神である天之八千千比売命とする説がある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:47 午後

大國玉神社 (松阪市)

三重県の大國玉神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東8Kmほどの六根町(ろっこんちょう)に鎮座。
60号線から南に入り、六根町の集落の西側、大福寺や公民館の隣りに境内がある。

境内入口は南向き。
入口右手に「式内大國玉神社」と刻まれた社号標が立っている。
数基並んでいる鳥居をくぐり、参道を右に左にクランク状に進むと当社の社殿。瓦葺拝殿の後方、垣の中に神明造の本殿がある。

拝殿の前、左手に鳥居が立っており、奥に境内社の祠が二つ。細かい話だが、本殿の千木は内削ぎで、境内社2つの千木は外削ぎだった。外削ぎは男神、内削ぎは女神を祀るという話があるが、実際には削ぎと祭神は関係ない場合が多い。

創祀年代は不詳。
鎮座地の六根町は神宮へ若菜を供するところと伝えられ、『神鳳抄』にある若菜御薗(御厨)に比定されている地。当社は、近世には御薗神社と称し、近郷の氏神として崇敬された神社で、式内社・大國玉神社に比定される古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 11:11 午後

宇留布津神社 (松阪市)

三重県の宇留布津神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東9Kmほどの腹太町(はらふとちょう)に鎮座。
60号線から南に入り、腹太町の集落の北側に境内がある。

境内入口は南向き。鳥居をくぐると右手に手水舎。
境内参道を右に左に、クランク状に進むと当社の社殿。
拝殿の後方、垣の中に神明造の本殿がある、簡素な神社。

当社は明治四十二年二月二日に六根の大国玉神社に合祀されたが、その後、氏子の総意によって昭和十年三月二十七日に古社地に分祀再興されたもの。境内には「奉献社地記念標」と刻まれた石碑が立っている。

創祀年代は不詳。式内社・宇留布津神社の論社の一つで、鎮座地名の腹太(はらふと)は宇留布津(うるふと)の転化であるという。が、それは無理があるとする説もある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:17 午後

入登山神社 (下條村)

長野県にある、入登山神社(下條村) を掲載しました。

長野県の下條村にある。
飯田線・天竜峡駅の南西12Kmほどの下條村陽皐(ひさわ)に鎮座。
151号線を南下し、83号線と交差するあたりから西へ進むと、キャンプ場やマレットゴルフ場のある入登山ふれあい公園があり、その公園の西奥に当社の境内がある。

当社の奥宮は汗馬山や亀沢山への登山道の途中にある臼小屋という山上にあるらしく、登山の安全を見守る故に「入登山」という社名になったという。参道を進むと奥宮参道「十四丁」と記された石碑が立っており、境内には「十五丁」と刻まれた石碑がある。これは奥宮までの距離ではなく麓からの距離のようで、五十丁まであるらしい。

境内入口は東向き。参道左手に手水舎があり、参道を進むと地元戦没者を祀る生霊宮や不動明王。さらに進むと鳥居が二基あり、鳥居の奥に当社の社殿。入母屋造の拝殿の後方に覆屋に納まった流造の本殿。本殿の左手に奥宮遥拝所や摂社の浅間神社(木花開耶姫命)が祀られている。

拝殿の右手に絵馬堂があり、中に山犬退治図の絵や災害救難の御礼絵馬が掲げられている。

山犬退治について。天明七年(1787)五月二十七日、草刈馬数十頭を野飼いしていた時、山犬が走って来て馬を食い殺した。市蔵という子が驚いて大声で叫び、佐助という若者がこれを聞いて駆けつけ大声で「南無高津権現様」と当社の神の名を唱えつつ鎌で山犬を斬り伏せ、自分には傷一つ受けなかった。その鎌とお礼の額が当社に奉納されている。

災害救難の御礼絵馬について。明治四十四年八月四日、未曾有の暴風雨により茂都計川が増水氾濫の危機に至り伊賀良村では数十丈の崖が崩落し子供を含めた村人十人が埋まってしまった。その時すかさず「入登山高津権現」を念じ、全員無事に難を逃れることができた。その年の十月十四日例祭の日に奉納された絵馬で救われた十人の合掌姿が描かれている。

このように様々な御利益により大事に祀られている神社。また、当社境内は標高777メートルの位置にあり勝運に御利益があるらしい。

通称は、権現さま。
社伝によると、清和天皇第十一世の末裔正四位下信濃国守小笠原長清四世の子孫下條伊豆守頼氏が、応永元年(1394)甲斐国の下條村(現在の韮崎市藤井町北下條・藤井町南下條あたり)より奉遷し、武運長久、衆庶の福祉安泰の祈願社として直祭したのが当社の創祀。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:13 午後

武田八幡神社 (韮崎市)

山梨県にある、武田八幡神社(韮崎市) を掲載しました。

山梨県韮崎市にある。韮崎駅の西3Kmほどの神山町北宮地に鎮座。
韮崎駅から西へ進み、602号線に入って、釜無川にかかる武田橋を渡り、北へ300mほど進んで西へ。602号線を道なりに進むと当社境内に突き当たるが、当社の手前300mほどの位置に当社の二ノ鳥居が立っている。

僕は北の方から当社に向い、途中で602号線に入ったので一ノ鳥居を見ておらず一ノ鳥居があるのかどうかすらわからない。

社前の右手に、ちょっと変わった岩がある。「一石百観音石像」と呼ばれる高さ約1.7mの安山岩に阿弥陀三尊と100体の小さな観音像が刻まれた岩。
もとは北方約五百mの隆岩山玉保寺にあったもので宝永六年(1709)の造立。明治十七年信徒たちによって武田八幡神社神宮寺跡地へ移され、さらに現在地に移されたらしい。

境内入口は、やや北寄りの東向き。石組の上に石鳥居が立ち、鳥居の後方に総門。
参拝は四月後半の朝。朝日を正面に受けた鳥居が良い雰囲気。
総門を迂回して参道を進み階段を上ると舞殿があり、舞殿の後方の階段を上ると当社の社殿。
瓦葺入母屋造の拝殿の左手には、武田勝頼夫人願文の石碑が立っており、拝殿の後方、高い場所に文化財の桧皮葺流造の本殿。
本殿の左手には若宮八幡社(大鷦鷯命)が祀られている。

鎮座地である韮崎市は武田氏の発祥の地であり終焉の地。
甲斐武田家初代武田信義の居館跡をはじめ、多くの歴史的遺産が存在し、当社背後の山には武田信義の白山城跡があるようだ。
武田信義は元服の際に当社において祖父である義清の武田姓に復し、韮崎市を本拠地としたという。

当社の社号は『平成祭データ』には武田八幡宮とあるが境内由緒書には武田八幡神社となっていたので、弊サイトではそれに従った。

祭神は中殿に誉田別命、右殿に息長足姫命、左殿に足仲津彦命、相殿に武田武大神。

社記によると、日本武尊の御子・武田王が当地に封ぜらて薨じ、鰐塚と呼ばれる墳墓に埋葬され、祠廟は居住跡があった桜ノ御所と呼ばれる地に建てられ、武田武大神として祀られていた。

嵯峨天皇弘仁十三年(822)年二月、勅命により武田王を祀る廟(王の宮社)を当地に移し、宇佐八幡を勧請して武田八幡と称したゆえに、鎮座の地を宮地という。

清和天皇の貞観年間(859~876)、京都石清水八幡宮を社中に勧請。
新羅三郎義光いらい甲斐源氏の尊崇が篤かったが、ことに義光の曽孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を氏神とあがめて崇敬のかぎりをつくした。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:23 午前

西外城田神社 (多気町)

三重県の西外城田神社(多気町) を掲載しました。

三重県の多気町にある。
紀勢本線の多気駅から南へ5Kmほどの野中に鎮座。
119号線を南に進み、13号線と交差したあたりで東に入ると当社の境内。
ただし、その道から入ると当社の裏参道に突き当たる。

裏参道入口は西向きだが、表参道は北向き。
階段の上に鳥居が立っており、右手に「西外城田神社」と刻まれた社号標。
階段を上り鳥居をくぐると右手に手水舎があり、
参道を右手に曲がると神宮遥拝所。
さらに進むと、綺麗に砂利が敷き詰められたスッキリとした境内。
境内左手の斜面に見晴らし台のようなものが設置されているが、なんだろう。

境内西奥に当社の社殿。社殿の前にも鳥居が一基。
瓦葺の拝殿の奥に、垣に囲まれて神明造の本殿がある。
本殿の左手前に境内社の祠が一つ。
『平成祭データ』に、当社の境内社として
護国の英霊を祀る和加之宮の名があるがこれだろうか。

創祀年代は不詳。
文明十一年(1479)の銘がある
城田郷・原郷の野中村、正五位下玉串大内人宇治土公貞重公の墓が
野中の上宮と下宮の中間の高台にあり、
宇治土公氏とは五百年程前、原郷野中村に住み、農耕祭祀を掌る一族であったといい、
その一族が祭祀していた社ではないかと言われている。

当社は、元は八柱神社と称していたが、明治十三年二月に上宮神社と改称。
明治四十年十二月五日、野中の石神神社など十三社を合祀して西外城田神社と改めた。
この時合祀された十三社の中の森庄村の八王子社(明治以降は八柱神社)を、
式内社・相鹿木大御神社とする説があるらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:47 午後