白山神社 (飯山市)

長野県にある、白山神社(飯山市) を掲載しました。

長野県飯山市にある。
飯山線の桑名川駅と上桑名川駅の中間あたり、新潟県との県境に近い照岡の山の中腹に鎮座。

408号線から北に入り線路を越えて左手に進み、小学校の側を通ってさらに進むと当社の鳥居が立っている。車でさらに奥に進めるようだが、広い場所に車を停めて階段を上って参拝。

苔で滑りやすい急で狭い階段を用心しながら登って行くと広い場所に出る。
どうやら先ほどの道を車で進むと、そのあたりに到着するようだ。

その広い場所から、遊歩道のように整備された階段があり、登って行くと、見晴らし台かと思わせる広い場所がある。そこが当社の境内。境内奥にコンクリートの蛸堂があり、中に春日造の本殿が安置されている。

当社の本殿は室町時代初期の応永三十二年(1425)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。

『日本の神々』によると、千曲川の洪水の時、川上から社殿と御神体が一緒に流れて来たのを当地の人々が引き上げて祀ったとある。

地元では歯の守り神として信仰されており、恐ろしい力を持つ神で、この神の悪口を言って崖から投げ飛ばされた人がいたとか。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:42 午後

魚見神社 (松阪市)

三重県の魚見神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東6Kmほどの魚見町に鎮座。
櫛田川にかかる魚見橋を渡ったあたり、
櫛田川の右岸、田畑に囲まれた杜が当社の境内。

境内入口は南向き。
鳥居の左脇に「行宮阯」と刻まれた石碑、
右脇に「式内魚見神社」と刻まれた社号標が立っている。

鳥居をくぐり杜の中に入ると、鬱蒼と茂る木々によって、やや暗めの境内。
クランク状の参道を進むと当社の社殿。
拝殿の扁額に「魚見神社」とあり、拝殿の奥、
塀に囲まれて神明造の本殿がある。

境内の隅に「一千九百五十年祭碑」と刻まれた石碑が立っていた。

垂仁天皇御代、倭姫命が天照大神を奉載し、
大神御鎮座の地を探して櫛田川を下っていた時、魚が自然に集まって
御船に飛び込んできたのを見て、倭姫命が大いに喜び、
この地に魚見社を創祀したという。

魚見町の北にある川島町鎮座の魚海神社とともに
式内社・魚海神社の論社とされる古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:10 午後

魚海神社 (松阪市)

三重県の魚海神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東7Kmほどの川島町に鎮座。
23号線を東へ進み、櫛田川にかかる松阪東大橋を渡り南へ下った場所。
櫛田川の右岸、田畑に囲まれた場所にある、こんもりとした杜が当社の境内。

境内入口は東向き。
鳥居をくぐると正面に「魚海社跡」と刻まれた石碑が立っている。
当社は明治四十二年一月十一日に一度、六根町にある大国玉神社に合祀されたが、
氏子の総意によって昭和十年三月十一日に古社地に分祀再興された神社。
「魚海社跡」の石碑は、その頃の名残なのだろう。

その石碑から右手(北)に鳥居があり、奥に社殿がある。
よって当社の社殿は南向き。瓦葺の拝殿の奥に、瑞垣に囲まれて神明造の本殿がある。

創祀年代は不詳。
社伝によると、垂仁天皇御代、倭姫命が天照大神を奉載し、大神御鎮座の地を探して櫛田川を下っていた時、魚が自然に集まって御船に飛び込んできたのを、倭姫命が大いに喜び、この地に魚海社を創祀したという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:54 午後

高杜神社 (高山村)

長野県にある、高杜神社(高山村) を掲載しました。

長野県の高山村にある。
長野電鉄・須坂駅の東5Kmほどの高井に鎮座。
54号線を東へ4.5Kmほど進み南へ200mほど下った場所に、道路に面して西向きの鳥居が立っており、鳥居の左前に「延喜式内高杜神社」と刻まれた社号標がある。

鳥居をくぐり参道を進むが、当社の参道は200mほどもある緩い上り坂で、120本の杉並木。
高山村の景観重要樹木に指定されているらしい。
杉並木の終点、境内の前に車道が横切っているので、車での参拝ではこの参道を通る必要はないようだが、
せっかくなのでゆっくりと時間をかけて歩く。

社殿のある境内は林の奥。
参道を進むと、神門のような拝殿のような建物があるが、たぶんこれは神楽殿。
神楽殿の奥は、緑の広場のような境内で、境内の奥に、社殿がある。

現在の社殿は、天明二年(1782)高井の名工、亀原和太四郎の作。
それ以前の社殿は大同元年(806)建造のものだったが、用材が朽ちたため建て直されたという。

社殿の右前、社殿から見ると左前に御柱が一つ。
信州の神社では、このように一本の御柱を立てている神社が多い。
四方に御柱を立てた場合、この左前が一之御柱の位置なのだろう。

創祀年代は不詳。
社伝によると、祭神・高毛利神は、建御名方命の第八子で、高位縣(高井郡の古称)の開拓の祖、総領の神であり、その子孫が代々、高位縣主の職を継いでいたという。
式内社・高杜神社の論社の一つ。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:01 午後

八柱神社跡 (多気町油夫)

三重県の八柱神社跡(多気町油夫) を掲載しました。

三重県多気町にある。
紀勢本線・相可駅から直線で南へ3Km、佐奈駅からは東へ2Kmほどの油夫(ゆぶ)に鎮座していた八柱神社の跡で、現在、佐那神社に合祀されて遥拝所となっているらしい。

油夫地区は南北に長いが、集落は北部に集中しており、その集落の南端あたり、民家の端、道の交差する場所に、灯籠が立っており、石が積まれた形式。
石組の上に「山神」と刻まれた石碑が四本あり、石組の東側の穴に庚申塔が祀られている。

『式内社調査報告』には、「村の南口に遥拝所が設けてある」とのみ記されており、集落の南側を歩いて探してみた。たぶん、ここで間違いは無いと思うのだが、自信は無い。

式内社・火地神社の論社であった八柱神社の跡。

明治四十一年一月、八柱神社が佐那神社に合祀された後、八柱神社の社地は畑になってしまったようで、佐那神社、あるいは佐那神社に合祀された八柱神社への遥拝所を集落に設置。つまり、正確に、ここが社地であったわけではないようで、八柱神社は、周囲の畑のどこかに鎮座していたのだろう。

江戸時代までは八王子と称していたが、明治二年に八柱神社と改称。
『神三郡神社参詣記』には「大森社五座、産土神八王子」と記され、境内は広大で、近在に見られない大社であったらしい。

油夫(ゆぶ)の地名は、齋火(ゆぶ)の意味とする説があり油夫の産土神であった当社は式内社・火地神社の論社となっている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:50 午後

佐那神社 (多気町)

三重県の佐那神社(多気町) を掲載しました。

三重県多気町にある。
紀勢本線佐奈駅の東700mほどの仁田に鎮座。
鬱蒼と茂る大きな森が境内で、東隣りに佐奈小学校がある。
当社の社名は佐那神社だが、鎮座地の旧名は佐奈村と書く。

紀勢本線の佐奈駅から東へ線路の北側の道(旧熊野街道)を進み踏切を渡ると当社の境内。
北向きの入口に新しい鳥居が立っており、鳥居の左脇に「縣社佐那神社」と刻まれた社号標がある。
境内の南側、42号線(熊野街道)にも境内入口があるが、とりあえず北側入口から境内に入る。

参道を進むと、江戸時代(西暦1850年頃)に植えられたと云う夫婦杉がある。
さらに参道を進み、右手に入る道に手水舎があり奥に社殿。
そのまま直進すると南側入口に出てしまう。

参拝は平成二十六年の三月。式年遷宮を終えた伊勢神宮参拝のおりに立ち寄ってみた。
境内の案内によると、平成二十七年三月に、当社でも二十年毎の式年遷宮(六回目)が行われるようで、参拝当日は本殿の工事中。
当社の本殿は神明造。周囲に足場が組まれ、数人の大工が作業中だった。

式年遷宮まで、当社の祭神は右隣に並ぶ境内社の和玉神社(地域の物故者を祀る)に遷されていた。

創祀年代は不詳。主祭神に天手力男命を祀り、『古事記』の天孫降臨の部分に、邇邇芸命に随伴した神として「次に手力男神は佐那那県に坐す」と記されているのが当社。
よって古事記編纂の頃(712年)には存在していたと思われ、式内社・佐那神社に比定されている古社。

延喜式には「佐那神社二座」とあり、天手力男命の他の一座には諸説あるが、当社では、曙立王(あけたつのみこ)とされている。
曙立王は、開化天皇の曾孫、日子坐王の孫、大俣王の子で、垂仁天皇の時、皇子誉津別命に従って出雲に至った神。
『古事記』には伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の祖と記されている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:43 午前