八柱神社 (多気町四疋田)

三重県の八柱神社(多気町四疋田) を掲載しました。

三重県の多気町にある。
紀勢本線・相可駅の南西2Kmほどの四疋田に鎮座。
相可駅から西へ進み、四疋田で南下すると、地域福祉センターの西端、道路がカーブしている場所に境内がある。

参道入口の脇に「伝 銅鐸出土地」と刻まれた石碑が立っている。
昭和十九年(1944)秋、弥生時代の銅鐸が出土した地に建てられていたものだが、路敷設のため平成九年九月に移動。もとは南西29mの地にあった。また、銅鐸の現在の所在は不明とか。

道路に面して西向きの入口を入り参道を進むと、右手(南)に鳥居。
鳥居をくぐり、さらに右手に曲がると社殿のある境内。
ということで、社殿などは東を向いていることになる。

社殿の形状は、拝殿の後方、瑞垣の中に神明造の本殿が一つ。
伊勢周辺の神社では、多くが同じような形をしている。

本殿の左手に境内社の小祠と、いくつかの石が祀られている。
拝殿内の案内によると、境内社は以下の四社らしい。
琴比良神社(大物主命)、菅原神社(菅原道眞公)、社宮神社(猿田彦大神)、塞神社(八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神)。

『三重県神社誌』に当社の記載はなく、創祀年代は不明。
『式内社の研究』によると当社は式内社・相鹿木大御神社であるという。
「木大」は「キタ」と読むらしく、疋田(ヒキタ)の地の所在が求められ、四疋田産土神の当社があてられたらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:55 午前

神田神社 (東白川村)

岐阜県の神田神社(東白川村) を掲載しました。

岐阜県の東白川村にある。
高山本線の白川口駅から北東へ17Kmほどの神土に鎮座。
白川に沿って62号線を進み、東白川役場の脇に参道入口。
写真を撮り忘れたが、当社の社号標が立っている。

役場の北側へ上る車道を進むと。カーブのあたりに境内入口の鳥居。
鳥居の後方の斜面が当社の境内だが、車道からは全貌がわかりにくい。

鳥居をくぐり神橋をわたると、左手に手水舎、右手に境内社があり、参道の階段を上ると砂利の境内。その境内の鳥居をくぐり、さらに階段を上ると同じように砂利の境内があり、鳥居があって、左右に社務所や参籠所らしき建物。

拝殿の由緒書きを見ると、再三、社殿を後方に移したようで、その鳥居の辺りが元の社殿の位置に当るのかもしれない。

その鳥居をくぐった階段の上に拝殿。拝殿の後方、一段高い場所に神明造の本殿がある。

元正天皇養老二年(718)の勧請にして、式内社・神田神社に比定される古社。
『美濃国神名記』に賀茂郡座二十九社のうちの「従五位下 神田明神」とある神社。

『平成祭データ』や『全国神社名鑑』には、『三代実録』に貞観六年(864)八月十五日、「美濃国神田従五位上」とあると記されているが『三代実録』の八月十五日の記述は美作国のもので、美濃国との誤解があったのかもしれない。

承平年間以後の変乱により数百年の間に頽廃していたが、嘉慶二年(1388)、源忠広により白山妙理大権現として再興された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:54 午後

大口神社 (伊勢市)

三重県の大口神社(伊勢市) を掲載しました。

三重県伊勢市にある。
伊勢市駅の北東3Kmほどの竹ケ鼻町に鎮座。
瀬田川の河口部附近、23号線から北に入った場所に境内がある。

車道に面して、境内入口は南西向き。
鳥居の左手に「大口神社」と刻まれた社号標が立っている。
鳥居をくぐり、参道を左手に曲がると正面に社殿。
拝殿の前にも鳥居が立っており、拝殿の後方に少し離れて瑞垣の中に神明造の本殿がある。

境内は広くは無いが、社殿の周囲や参道には清浄な砂利が敷き詰められ、
緑の苔も程良く生育している雰囲気のある神社。

参道に「山の神」と呼ばれるらしい石が祀られている。
本殿の左手にも同じような石があるが、これも山の神だろうか。

また、本殿の右手に「七本竹」が祀られており、
拝殿の案内によると「安産の神様」として祀られているようで、
竹ケ鼻町自治会へ行けば、七本竹社の御守りも配布されるらしい。

創祀年代は不詳。
「大口」とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川の合流する地点が
大水戸口を形成するが故に大湊と称し、このあたりを大口村と称したという。

『三重県神社誌』によると、昔、箕曲郷匂村三津社という地に、河原大社、水饗社、河原饗社という
水に関する三社が祀られていたが、明応の大震災により人家田畑が流出。
水饗社を竹ケ鼻に遷して大口神社と改称したという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:12 午後

諏訪神社 (甲府市和田町)

山梨県にある、諏訪神社(甲府市和田町) を掲載しました。

山梨県甲府市にある。
甲府駅の北3Kmほどの和田町に鎮座。
千代田湖へ向かう104号線から西へ入り、西川を渡った場所。
山の斜面にあり、老人ホームの北側に境内がある。

地図を見ると、境内の東側に細い参道があるようだが、
よくわからなかったので、老人ホーム側の脇から境内に入って参拝開始。
南向きの鳥居には「諏訪大明神」と記された扁額がかかっていた。

鳥居をくぐると緑の境内、参道を進み、階段を上ると東向きの社殿がある。

参道脇に境内社があり、社殿の北側には岩が祀られ、
岩の上に「大嶽山」と刻まれた石碑が立っている。

参拝は、四月の早朝。緑が多く清々しい境内だった。

創祀年代は不詳。
往古より膝屈(ひざかがみ)大神諏訪神社と称された神社で、
『日本紀略』寛平三年(891)三月五日に
「奉授甲斐國坐正六位上膝上神從五位下」とある式外の古社。

社伝によると当社祭神が牛に乗って御幸ありしが、牛から落ちて膝を傷めたといい、
それ以来、膝屈神社と称するようになったという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:47 午前

愛本新用水天満宮 (宇奈月町)

富山県にある、愛本新用水天満宮(宇奈月町) を掲載しました。

富山県黒部市にある。
富山地方鉄道愛本駅の北4Kmほどの宇奈月町愛本新に鎮座。
黒部川を渡って北上すると、広大な田畑が広がっているが、
その中央部附近に東向きの境内がある。

境内の裏側にあたる西側に車道があり、車を停めて参拝開始。
参拝は十月後半、雨の日の朝。
傘をさして鳥居のある東側へ回ると「天満宮」と刻まれた社号標が立っている。

当社の正式名は「天満宮」だが、境内の案内板には愛本新用水天満宮とあった。
愛本新に鎮座する、用水完成を祝う天満宮なのだ。

鳥居をくぐると広い境内。
ただし、樹木などはほとんど無く、社殿と燈篭があるだけの簡素な神社。
『富山県神社誌』に載っている写真では、社殿のまわりに樹木が立ち並んでいるのだが、
最近伐採されたのだろう。

赤い屋根の入母屋造の拝殿はガラスで覆われ、後方に流造の本殿がある。
拝殿に中将松と呼ばれた松の木の一部が置かれていた。
前田治修公(参議中将)が愛本新用水開墾を視察した際、
この松の根元で休息されたという富山県史蹟天然記念物だったが、
昭和五十六年一月二十一日、大雪のため倒壊したらしい。

境内に樹木が無いのも大雪のためだろうか。
境内のあちこちに伐採された切株が点在していた。

往古、舟見野一帯は水が無く荒れ果てた土地で離散する人々も多かった。

寛政年間、時の十村(十村を管理する庄屋、加賀藩独自の制度)であった伊東彦四郎祐寿は
この惨状を救うには黒部川より一大用水を通ずるしかないと考え、
加賀藩十一代藩主であった前田治修公に願い出たが、藩の貧困のため許可されなかったが、
その後も再三請願を続ける彦四郎の熱意に感動した前田治修公は
藩政を節約して十五万両を与え用水工事を命じられた。

寛政十年(1798)工事着工から五年の歳月を費やして
享和二年(一八〇二)の冬十一月六日に延長三里(12Km)の用水が完成。
用水は荒野を五七七町余(約39670アール)の美田と化した。
住民は前田治修公の美挙に感激し、一社を建立して前田治修公を生きながらに祀り、
天満宮と称して、産土神とするとともに用水の守護神として崇敬したという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:47 午後

津田神社 (多気町)

三重県の津田神社(多気町) を掲載しました。

三重県の多気町にある。
紀勢本線・相可駅の西3Kmほどの井内林に鎮座。
421号線から北へ入った場所。小学校の北側にあり、櫛田川の南側に南向きの境内がある。

参道入口も南向き。
社前から境内の大きな御神木が見える。
参道を進むと境内入口の鳥居。鳥居の左手に「津田神社」と刻まれた社号標。
鳥居の右手には「伊勢白龍大明神」を祀った石碑が立っている。

鳥居をくぐると右手に、境内の外からも見えた、樹高35mの大きな御神木。
鳥居の正面に拝殿があり、拝殿の後方、瑞垣の中に神明造の本殿がある。

鳥居から右手に行くと、境内の南東隅に「禁殺生」「林神社」と刻まれた石柱があり、
境内の左手(西側)には「橿原神宮遥拝所」の石柱が立っている。

創祀年代は不詳。
上記のように旧名を林神社と称し、式内社・林神社に比定されている古社で、
延喜斎宮式によると、斎宮の祈年祭、新嘗祭に預かり、
絹・木綿・麻・楯などが座別祭料として供進された神社であったが、
文政元年十一月、火災により古記録を焼失したらしい。

明治三十九年に明細帳によると、享保年間、和歌山藩より「禁殺生」の棒石が建設され、
社域の四隅に「林神社」と記した石が建てられたとある。

参拝当時、このことを知らなかったので、僕は南東隅の石柱しか確認していないが、
今でも四隅にあるのだろうか。

明治六年三月、村社に列し、
明治四十一年二月十一日、村内四十社を合祀して津田神社と改称した。
『三重県神社誌』によると「村名を以て」とあるので、当地は明治期には津田村と呼ばれていたのかも。

式内社・櫃倉神社について、『伊勢式内神社撿録』には
櫛田川の南岸、鍬形村の天神社が論社として挙げられているらしい。
鍬形村には、村社・八雲八柱神社、無格社・鍬山神社、無格社・菅原神社があったが、
この菅原神社が天神社のこと、つまり櫃倉神社だったと考えられている。
この三社は、明治四十一年一月十七日に合祀されて櫃倉神社と改称し、
さらに、明治四十一年二月当社・津田神社に合祀されたらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:46 午後