香良洲神社 (香良洲町)
三重県の香良洲神社(香良洲町) を掲載しました。
三重県津市(旧一志郡香良洲町)にある。
紀勢本線の高茶屋駅から南東へ5ほどの香良洲町に鎮座。
23号線を南下し雲出大橋の北側で東へ進み香良洲橋を渡って道沿いに進むと当社の前。香良洲町は雲出川の河口部にあり、雲出川と雲出古川によって形成された三角形の浜洲。その浜洲の南側に当社の境内がある。
境内入口は南向き。鳥居の左手に「香良洲神社」と刻まれた社号標が立っている。
参拝は2014年の3月。式年遷宮を終えた伊勢の神宮への参拝の帰途。
当社でも20年毎の式年遷宮が2014年4月21日に予定されており、境内や社殿の造営作業もほぼ終了している状態。境内入口の鳥居も真新しい木の色をしていた。
鳥居をくぐると、広場のような場所があり、その北側の杜が社殿のある境内。
杜の入口にも真新しい鳥居が立っている。
境内に入り、砂利の参道を進むと道が左右に分かれており、左手に進むと当社の御正殿。右に進むと遷宮中の仮本殿となっている小香良洲社。
御正殿の玉垣や瑞垣も新しく美しい。
玉垣の右手(東側)には、旧正殿のあった東御敷地があり、旧社殿の廃材などが置かれていた。
創祀年代は不詳。社伝によると欽明天皇の御代の創祀。
一志の浜洲に夜な夜な御神火が見え、里人が畏れ騒いでいたところ、一志直青木という人が神の御心を仰ごうと、浜に出て御神誨を乞うたところ「吾は生田の長狭に坐す稚日女神である。姉神の坐す伊勢のこの地に鎮まりたい」とのお告げがあり、生田神社より勧請したという。
生田神社の稚日女尊に関しては、神功皇后が新羅征伐の後、難波へ凱旋の折り、海中が旋回して船が進まず、務古の水門に引き返して神意をうかがったところ、稚日女尊が「吾、活田長峡國に居らまく欲す」とお告げがあり、海上五十狭茅に祀らせた神。
「香良洲」の語源は、神功皇后の三韓征討=韓統(からすぶ)からという説や、海が荒れるところから辛洲(からす)となったという説がある。
個人的には、参拝中、当社の上空を多くの烏が飛び交っていたのが気になるが。
当社、香良洲神社と境内社・小香良洲社は、式内社・稲葉神社二座の論社。
香良洲町は昔、矢野村と称しており、当社祭神は、稲葉八上姫と素盞鳴尊の娘神・八野若比女とせる説がある。稲葉は稲を干すところで、香良洲は稲を枯らす地であり、対岸の星合は干会であるという。