八幡宮 (砺波市高波)

富山県にある、八幡宮(砺波市高波) を掲載しました。

富山県砺波市にある。
JR城端線・砺波駅の北西5Kmほどの高波に鎮座。
道順は言葉では説明できないが、田の中にポツンと一つ、社域の森がある。

東向きに参道入口があり、「八幡宮」と刻まれた社号標が立っている。
参道を進むと、境内入口の鳥居。境内や社殿は北向き。
鳥居をくぐると、右手に「西宮森集落農事集会所」、つまり公民館がある。
鎮座地の字が西宮森なのだと思う。
『平成祭データ』には、当社の通称は川田八幡宮ともある。

境内の南奥に社殿。拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿覆屋も瓦葺。
残念ながら本殿の形式は判らない。

境内左手に由緒を刻した立派な石碑が建てられている。

参拝は晩秋の日の午後。夕方近く。
境内はそれほど広くは無いが、雑草は綺麗に刈り取られ、
植栽も美しく、氏子の方々に大事にされている農村の神社だ。

社伝によると、垂仁天皇の頃、阿彦という凶賊がおり
阿彦討伐の勅命を受けた大若子命が、下向の際、
越の小竹野において戦略会議を行っていた時、白姥(白髪の老婆か)が現れ、八権布八折を授けた。
大若子命は、教えに従い、その布で八鉾の幡を作り、阿彦を攻め、これを平らげた。
大若子命凱旋の途次、ここに祠を建て、八鉾の幡を納めて八幡宮として祀ったという。

『式内社調査報告』に、式内社・長岡神社の論社として宮森の社が挙げられており、
東宮森の春日社か、西宮森の八幡社の何れかを長岡神社とする説があるらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:12 午前

大間々神明宮 (大間々町)

群馬県の大間々神明宮(大間々町)を掲載しました。

群馬県のみどり市(旧大間々町)にある。
わたらせ渓谷鉄道わたらせ渓谷線・大間々駅の北東、
渡良瀬川の高津戸峡の「ながめ公園」の脇に境内がある。

境内から高津戸峡を見渡せる場所があるのだが、
樹木が密生して、何も見えなかった。
境内の近くにある、「はねたき橋」や周辺の遊歩道に行けば
美しい写真が撮れるかもしれない、と思いながら参拝し、
参拝を終えたら、すっかり忘れてしまって、残念ながら写真はない。

境内入口は南西向き。
338号線から、緩やかに下る参道があり、境内入口には石造の神明鳥居。
鳥居をくぐると、左手に手水舎。境内右手に神楽殿。
広く美しい境内の奥に、神明造の社殿がある。

境内の由緒書によると、鎮座六百五十年、中興遷座四百年の記念事業として
平成十二年に社殿が新築されたようで、社殿の右手に旧社殿らしき祠がある。

社殿の背後は、渡良瀬川。
境内の左右には林が広がり、散策路になっているようだ。
木漏れ日の射す晩秋の林は、とても気持ちが良い。

拝殿の扁額には「皇大神宮」とあるが、当社の正式名は神明宮。
ただ、御朱印に鎮座地の「大間々」が筆書きされていたので、
当サイトでは、大間々神明宮としておく。

社伝によると、南北朝時代の貞和三年(1347)、
現在地の東100mほどの渡良瀬川の伊勢ケ淵岩頭に、
天照皇大神が文袋坊によって祀られ、
黒川郷(渡良瀬川流域の里)の一宮として崇敬された神社。

慶長二年(1597)大間々町の鎮守として、現在地に仮宮をたて、
慶長四年(1599)正式に遷座したという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:22 午後

中山神社 (恵那市)

岐阜県の中山神社(恵那市) を掲載しました。

岐阜県恵那市(旧串原村)にある。
恵那駅の南33Kmほどの串原に鎮座。
矢作川に近い山の上にあるゴルフ場の横に境内がある。

僕は西にある阿智町方向から当社へ向かったが、
403号線の車道の脇に鳥居が立っていた。
気になったので車を停めて見てみると、鳥居の脇に「中山神社」と刻まれた社号標。
地図を見ると、そのあたりから山へ入る道があるようで、
昔は、その鳥居付近から参道が境内へ続いていたのかもしれない。

あいにく、時刻は夕方近く、そろそろ暗くなりそうだったので、急いでゴルフ場を目指す。
ゴルフ場の前に当社の境内入口があり、車を進めると広い駐車場。
駐車場の脇に参道入口の鳥居が立っており、鳥居の前には、
ゴルフ場造成の時に移転した「弁慶の踏割石」がある。
鳥居をくぐり参道を進むと鬱蒼とした樹木の茂る境内。

参拝は晩秋の日の夕方。境内に入った頃から徐々に暗くなってきて、
社殿には灯りが灯っていた。
境内の地面は一面の落ち葉で、黄色いジュータンを敷き詰めたようだった。

境内の鳥居の左手に参籠殿のような二階建ての建物があり、
右手奥の階段の上に当社の社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿は元禄四年建立の銅板葺流造。

本殿の左右に狛犬の像が2体ずつ置かれており、
1対は狐のように耳が立っており、1対は耳が垂れた狛犬。
当社は山犬を神使としており、通称は「おいぬ様」。その山犬の狛犬だろうか。

『平成祭データ』によると、宣化天皇四年(539)、
大和国金峯神社の分霊を勧請したという古社。
ただし『美濃国神名帳』恵奈郡七社に当社の記載は無いようだ。

『明治神社志料』では、創祀年代は不詳だが、
串原城主遠山家が吉野の金峯神社の分霊を勧請、鎮祭し、
府城の鎮護神として崇敬した神社とある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:10 午後

岩瀬諏訪神社 (富山市)

富山県にある、岩瀬諏訪神社(富山市) を掲載しました。

富山県富山市にある。
富山駅の北7Kmほどの岩瀬白山町に鎮座。
当社の通称は浦の宮。神通川の河口部にあり富山港の近くに境内がある。

地図を見ると、富山ライトレールという路面電車の競輪場前駅の西100mの位置にあり、
競輪場は駅の東側、当社は西側にある。
鎮座地名の岩瀬白山町は、当社近くの白山神社に由来するもののようで、
白山神社の地に、当社が後から遷座してきて、当社の方が大きくなった感じ。

境内入口は西側の1号線に面しており、西向きに鳥居が立っている。
鳥居の脇には「諏訪神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると手水舎や神馬像があり、参道を右に曲がると社殿。

参道脇に大黒様を祀った摂社が祀られているが、
雪の多い北陸らしく、境内社にもガラスの雪除けの中にあるのが面白い。

参道を進むと正面に銅板葺入母屋造の堂々とした拝殿。
拝殿の後方に流造の本殿がある。
拝殿には「山王社 諏訪社 神明社」の名が記された扁額。
左手には「聖廟」「天満宮」という扁額も掲げられているが
これは合祀された尾山神社のものだろうか。

当社の正式名は「諏訪神社」だが、
境内の由緒書には「岩瀬諏訪神社」と記されていたので
当サイトでは岩瀬諏訪神社としておく。

創祀年代は不詳。
万治二年(1659)、神通川が洪水で東に転流した時、
住民移住の際に産土神である婦負郡西岩瀬の諏訪神社を東岩瀬に遷座。
その時に、各種材木や道具などを運んだ運搬車が
当社の曳山車の始まりであるという。

その後、文政十年(1827)に諏訪町(富山マリーナのあたりか?)に遷座。
昭和十七年に、富山市の都市計画による富岸運河掘削のため、
諏訪町から現鎮座地である白山町に遷座された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:41 午後

阿智神社 (阿智村)

長野県にある、阿智神社(阿智村) を掲載しました。

前宮
奥宮

長野県の阿智村にある。
阿智町役場の北西3Kmほどの智里(ちさと)に鎮座。
阿知川を遡って153号線を西へ進み、
256号線に入って1Kmほどの昼神温泉に阿智神社前宮(前社)がある。

256号線から北へ入った場所に境内があるのだが、
入る場所を間違えて、僕は境内の裏から参拝した。
ということで、一度境内を通過し、表参道に戻って参拝開始。
参道の坂道を上ると鳥居が立っており、鳥居の奥に手水舎。
手水舎の前を通過し、階段を上ると、もう一つの鳥居。
鳥居をくぐると、社殿のある林の中の境内。

「鳥居をくぐる」と記したが、実際にはくぐっていない。
参道の二基の鳥居には、細い注連縄が張られているのだが、
胸の高さの位置に張られているため、くぐる事をためらった。
通常の神社の鳥居では、注連縄は上部の貫(横棒)の位置にあるのだが、
阿智村周辺の神社では、鳥居の脚の部分の中ほどに張られているようだ。

境内の奥、北側に南向きの社殿。
入母屋造妻入りの拝殿の後方に、本殿を納めた覆屋が接続した形式だ。

拝殿の左手の木に、白い御幣が掲げられていた。
なにか意味のあるものだと思うが、詳細は未確認。
西側にあることから、奥宮を遥拝するものなのかもしれない。

創祀年代は不詳。
社伝によると人皇第八代孝元天皇五年春正月、
天八意思兼命が御子神を従えて信濃国に天降り鎮座したという。
式内社・阿智神社に比定されている古社。

前宮から、さらに阿知川を2Kmほど遡った場所、
本谷川と黒川が合流して阿知川となる三角に突出した半島状の地に当社の奥宮(奥社)がある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:28 午後

妙義神社 (富岡市)

群馬県の妙義神社(富岡市)を掲載しました。

群馬県の富岡市(旧妙義町)にある。信越本線・松井田駅の西4Kmほど、
上越自動車道の松井田妙義I.C.の南2Kmほどの妙義に鎮座。
196号線を進むと、右手に褐色の大きな鳥居が立っており、すぐ近くに道の駅。
境内は妙義山系の白雲山の東麓。道の駅から白雲山がよく見える。

妙義山は、富岡市・安中市・下仁田町の境界に聳え、
奇岩・奇峯の連続する上毛三山の一つ。
大きくは白雲山・金洞山・金鶏山の三山の総称。
さらに相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせて妙義山と呼ぶ。
当社妙義神社は、その白雲山を神体とする神社。

鳥居をくぐり緩やかな参道坂道を上って行くと、
目の前に聳える白雲山の中腹に「大」の文字が見えてくる。
この「大」の字は妙義大権現の「大」。
中山道を歩く人々の遥拝の目標とされたらしい。
境内の案内によりと、境内から大の字まで50分。
大の字から当社の奥の院まで40分程度らしい。
昔なら奥の院まで登っていたはずだが、最近、体力の衰退を自覚しだしたので
今回の参拝では奥の院まで参拝していない。
今考えるとちょっと後悔。暖かくなったら登ってみたい。

白雲山を眺めながら参道を進むと朱塗りの立派な総門。
この総門は、かつて当社の別当であった石塔寺の仁王門だったもの。
総門から左手に参道を進み、階段を上ると銅の鳥居。
銅鳥居の扁額には「白雲山」とあった。

銅鳥居をくぐった右手に旧波己曽社殿。
宝暦六年、現在の妙義神社本社が建立された時に旧社殿を波己曽社としたもの。
以前はは、妙義神社本社社殿の右手にあったようだが、
昭和四十四年現在地に復元された。

参道をまっすぐ進み、さらに階段を上ると随神門。
随神門をくるぐと、石垣の上、垣に囲まれた境内があり、
中央部東側に唐門、南に南門、北に北門。
中央の唐門の奥に、復旧された当社の権現造の社殿がある。
黒を基調に金の細工や彩色された彫刻が美しい。

本殿の後方には天狗社が祀られ、天狗面が置かれていた。
また、本殿の右手(北側)にはいくつかの岩がある。
『日本の神々』には、境内に影向岩があると記されているが、この岩だろうか。
あるいは、境内右手の参道脇にある大岩のことだろうか。

長野に引っ越してのち、当社へも参拝したのだが、
その時はカメラを持参しておらず、近くなので、すぐに再訪するつもりだったが、
平成十九年九月の台風により、当社の社殿が被害を受け、
復旧工事が終了したのが平成二十四年十二月。
その一年後の年末に参拝してみた。

妙義の名は、後醍醐天皇に仕えた権大納言藤原長親がこの地に住み、
明々巍々たる山の奇勝から「明巍」と名付けたものが、
後世「妙義」へと変化したものらしい。

創祀年代は不詳。
一説には宣化天皇の二年、または欽明天皇の御宇の創建という。
あるいは、権大納言藤原長親による創設とも、妙義法師・法性房尊意の創建とも。

古くは波己曾明神と称し、
『三代実録』の貞観元年(859)三月二十六日に、
「授上野國正六位上波己曾神從五位下」とあり
『上野国神階帳』に「従二位 波己曾大明神」とある古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:54 午後