牛庭神社跡 (松阪市東久保)

三重県の牛庭神社跡(松阪市東久保) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の東7Kmほど、櫛田川右岸の東久保町。
23号線の東黒部町交差点から706号線を300mほど南下して、
東へ入った場所の道路南側に石碑が立っている。

『式内社調査報告』に載っている地図を頼りに探したが、
石碑は道路を背にして立っているので、二度ほど見逃して通過してしまった。
ふと車を停めて前面に回ってみると「牛庭神社跡」と刻まれていた。

石碑の左側には石祠。背面に埋め込まれた石板によると、
この石碑は昭和十年に建立されたものらしく、
「耕地整理によって北東七十五米の地にあった社跡をここに移す 昭和六十年三月吉日」とある。

石碑のある道路が東久保町と牛草町の境界線になるのだが、
元は牛草町に鎮座していたようだ。

「牛庭神社」の読みは確認していないが、
同じく松阪市にある牛庭神社は「うしばじんじゃ」と読むので、それに従った。
ただし牛草町は「うしくさ」と読むらしいので「うしにわじんじゃ」が正しいのかもしれない。

式内社・牛庭神社の論社であった神社。
現在は柿木原の二十五柱神社に合祀されて、昭和十年、跡地に石碑が建立されたもの。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:55 午後

桐生天満宮 (桐生市)

群馬県の桐生天満宮(桐生市)を掲載しました。

群馬県桐生市にある。
桐生駅の北東2Kmほどの天神町に鎮座。
66号線(本町通り)を北上すると、当社正面に到着する。

境内入口は南やや西向き。
大きな神明鳥居の一之鳥居が立っており、右手に「桐生天満宮」と刻まれた社号標。
資料によると、当社の正式名は「天満宮」らしいが、
桐生天満宮と通称されているようだ。

鳥居をくぐり参道を進むと、二之鳥居が立っており、御神木の大銀杏。
参道の右手に機神神社(栲機千千姫命)が祀られている。

上毛かるたにも「桐生は日本の機どころ」とあり、桐生は織物の盛んな土地。
関ケ原合戦の際、軍旗に用いる旗絹を当社の御神前に供えて戦勝祈願し、
その勝利凱旋を吉例として境内にて織物市が開設されて、
後の桐生織物繁栄の礎となったということで、その織物の神を祀ったのだろう。

さらに参道を進むと、石橋やからくり人形水車などがあり、境内左手に財福稲荷。
財福稲荷の脇に南蛮燈篭があり、境内社を合祀した宝船神社。
宝船神社には、大国主大神、事代主大神、大宮能売大神、天鳥船大神、
少彦名大神、須佐之男命、伊邪那岐命・伊邪那美命などが祀られている。

参道正面に神門があるが、神門の手前に芭蕉句碑と牛石。
昔、神様が怠け者の牛を綱でつないで反省させようとしたが、
怠け者の牛は反省せずに石になってしまったという。
「牛石やひかれ手綱に糸さくら」芭蕉句碑

神門をくぐると正面に社殿。社殿全体は拝殿幣殿本殿を連結した権現造だが、
拝殿自体は入母屋造。本殿(群馬県指定の重要文化財)は流麗な流造。
この社殿は安永七年(1778)に起工し、寛政五年(1793)に落成したもの。
当社は「岩の上の天神」とも称されるようで、本殿・幣殿は岩の上に建っているらしい。
本殿後方から見ると、垣の中に立て岩らしきものが見えたが、その岩の一部だろうか。

参拝は十一月の中旬。
社殿では七五三か初宮詣の祈祷が行われていたようだった。

当社は関東五大天神の一社。(残り四社はどこだ?)

社伝によると景行天皇の御代、上毛野君御諸別王が当国の国造となり、
土師部の氏人に、天穂日命を当郡磯部の岡に奉斎させ、磯部明神と称したという。
上野国神名帳にも「山田郡従四位上礒部明神」とある古社。

文治三年(1187)桐生家の祖藤原綱元が当地を領し、
綱元の末孫・国綱の時に桐生に遷座。
観応年間(1350頃)、桐生家に縁の北野天満宮より
菅原道真公の神霊を勧請合祀し桐生天満宮と改称。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:14 午後

阿射加神社 (松阪市大阿坂)

三重県の阿射加神社(松阪市大阿坂) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の西9Kmほどの大阿坂町に鎮座。
松阪市の北西に位置し、阿坂城のある阿坂山(現、枡形山312m)の東麓、
伊勢道松阪I.C.入口から北へ2Kmほどの場所。
58号線を北上し、JAの横を西へ入ると当社の社域が見えてくる。

境内入口は東向き(正確には北東東向き)。
数段の階段をのぼると参道入口に鳥居が立っており、
鳥居の右脇に「禁殺生」「阿射加神社」と刻まれた石柱。
伊勢周辺の古社では、同様の石柱が社前に立っているようで、
参道の由緒書きによると、享保九年(1724)紀州家より贈られたものらしい。

鳥居をくぐり、木々の茂る長い参道を進むと境内社や鳥居、御神木。
参道の先に割拝殿があって、その奥が広い境内。
その境内の西端に鳥居が立っており、階段を上ると神門。
神門が拝殿を兼ねた構造で、神門の前、階段下に賽銭箱が置かれており、そこで参拝する形式。

神門の奥、玉砂利が敷き詰められた場所に、瑞垣に囲まれた本殿が鎮座している。
由緒書きによると一殿三扉の唯一神明造で、三柱の神を祀っているような構造。
左手の少し高い場所から瑞垣の中を見てみると、社殿の前面にシートが被せられており、
何かの工事中だったのだろうか。また垣内の本殿の周りにいくつかの小祠があるようだ。

参拝は三月中旬。
式年遷宮を終えた伊勢神宮への参拝の帰りに立ち寄ったが、あいにくの雨。
ただ当社のように緑の多い神域では、雨の日の参拝も心地よい。

『倭姫命世記』などによると、
安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
倭姫命がこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため
大若子命たち三人を朝廷へ遣わされたところ、
天皇は大若子命に命じて様々な贈り物を荒ぶる神に捧げ、
ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、
荒ぶる神である伊豆速布留神を祀ったのが当社の起源。
垂仁天皇十八年四月十六日のことであるという。
その後、応永年中(十五世紀)伊勢国司北畠満雅が阿坂山に砦を築いた時、
山上から現社地に遷座したとも伝えられているらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:31 午後

阿射加神社 (松阪市小阿坂)

三重県の阿射加神社(松阪市小阿坂) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の西8Kmほどの小阿坂町に鎮座。
松阪市の北西に位置し、阿坂城のある阿坂山(現、枡形山312m)の東麓、
伊勢道松阪I.C.入口から北へ1.5Kmほどの場所。
58号線を北上し、小学校の横を西へ入ると当社の社域が見えてくる。

境内入口は東向き。
入口には白い神明鳥居が立っており、
鳥居の右脇に「禁殺生」「阿射加神社」と刻まれた石柱。
伊勢周辺の古社では、同様の石柱が社前に立っているようだ。

鳥居をくぐり参道を進むと鳥居や橋があり広い境内。
その境内の西端に鳥居が立っており、階段を上ると神門。
神門が拝殿を兼ねた構造で、神門の中央に賽銭箱が置かれており、そこで参拝する形式。

神門の奥、玉砂利が敷き詰められた場所に、
瑞垣に囲まれた本殿が三棟並んでいる。

本殿の屋根には花菱紋。
『三重県神社誌』にも当社の神紋は「花菱」と記されているが、
境内左手の厩屋内には五瓜の中に梅鉢の紋が染められていた。
当社の神紋は花菱紋で間違いはないだろうが、この梅鉢紋も載せておく。
ただし、当社の神官は明治まで菅原氏が務めていたらしく、
神官である菅原氏の紋なのかもしれないが。

参拝は三月中旬。
式年遷宮を終えた伊勢神宮への参拝の帰りに立ち寄ったが、あいにくの雨。
ただ当社のように緑の多い神域では、雨の日の参拝も心地よい。

『倭姫命世記』などによると、
安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、宇治の五十鈴の川上の宮へ行くことが出来なかった。
倭姫命がこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため
大若子命たち三人を朝廷へ遣わされたところ、
天皇は大若子命に命じて様々な贈り物を荒ぶる神に捧げ、
ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、
荒ぶる神である伊豆速布瑠神を祀ったのが当社の起源。
垂仁天皇十八年四月十六日のことであるという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:35 午後

松下社 (二見町)

三重県の松下社(二見町) を掲載しました。

JR参宮線松下駅の北500mほどの二見町松下にある。
42号線の東側に蘇民の森とも呼ばれる境内があり、広い駐車スペースもある。

駐車場側には「松下社」と刻まれた社号標と鳥居。
鳥居をくぐると蘇民将来を祀る蘇民祠があり、当社の通称は蘇民社。

『備後風土記逸文』の蘇民将来神話によると、
北海にいた武塔神が、南海の神の娘のもとへ通う時、
日暮れてしまい、備後国の地で宿を求めた。
備後国には将来兄弟が居り、弟の巨旦将来は豊かであったが宿を与えず、
兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、当地で報復を行うことになるが、
蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし免れたという。
武塔神は、その時「吾は速須佐雄の神なり」と名乗ったという。
また、武塔神は牛頭天王とも称す厄神で、祇園大明神とも呼ばれている。

蘇民社では古くから「蘇民将来子孫」と書いた桃符を配布し、
伊勢志摩地区の人々はそれを注連縄に吊るして厄を逃れるという。

南側にも参道があり鳥居がある。
南側鳥居をくぐると、参道の左手に樹齢2000年と言われる大楠。
三重県の天然記念物にも指定されており、下部は大きな空洞になっている。
参道の右手には、榊を束ねた山の神が祀られている。
朽ちてしまう榊なので、毎年祀りなおされているのだろう。

南側からそのまま参道を進むと正面に社殿。
壁の無い拝殿の右手に絵馬堂があり、
拝殿のの奥、砂利の区画の中に神明造の本殿が鎮座。

拝殿の前、通常は狛犬が置かれている場所にも、
山の神同様、榊を束ねたものが、左右に置かれていた。

当社の創祀年代は不詳。
松下地区の氏神として崇敬された古社で、
「氏経神事日次記」文安六年(1449)六月十五日贄海神態の条に
「其雨の間、饗に於いては、松下社の拝殿に於いてこれを調理す」という記事が最古の記録。

ただし、入口付近には「コウザキサン」が祀られているという土地の伝承あるらしく、
当社を式内社であり、皇大神宮摂社でもある神前神社の旧地とする説もある。

また『三重県神社誌』によると、安倍晴明により勧請されたとの言い伝えもあるらしく、
境内蘇民の森は請明森とも呼ばれているとある。
当社の神紋に晴明判が用いられているのはそのせいか。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 11:29 午後

武並神社 (恵那市大井町)

岐阜県の武並神社(恵那市大井町) を掲載しました。

岐阜県恵那市にある。
恵那駅の南東1.5Kmほどの大井町に鎮座。
恵那駅から415号線を南下し、正家交差点から19号線を東へ。
阿木川にかかる恵那大橋を渡った場所、19号線の北側に境内がある。

境内入口は交差点近く、南西向き。
入口に「武並神社」と刻まれた立派な社号標が立っている。
参道を進み鳥居をくぐると、右手に赤い鳥居。
鳥居の奥に境内社の五郷稲荷(宇迦御魂命)が祀られている。
案内板によると大井村、東野村、永田村、正家村、中野村の五ケ村が崇敬した稲荷社だそうだ。

参道を進むと左手に手水舎。階段を上ると萱葺の社殿。
入母屋造妻入の拝殿の後方に、伊勢神宮の古材を用いた幣殿。
一段高い場所に本殿がある。
本殿の形式は入母屋造のように見えるが、流造の左右に屋根を付けたような感じ。
日吉造のようにも見え、なかなか美しいフォルム。

本殿の左に多度神社(天津彦根命)、右に神明神社(天照皇大神、豊受姫大神)が祀られている。

境内の左手奥に鎌倉杉の跡。
承久二年(1220)守護職新田四郎左衛門尉源義清(茄子田城主)の子・淡路守義綱が
鎌倉での勤務を終えて帰る時、鎌倉三将軍の廊堂の周辺のあった杉苗三株を持ち帰り、
社の東・北・西に植えたものだそうで、残っていれば樹齢八〇〇年近く。

拝殿の左手に大きな御神木があるが、植物に詳しくないので杉なのか桧なのかわからなかった。

創祀年代は不詳。
承久二年(1220)に再興された旧郷社。
鎌倉三将軍の神像が相殿に併祭されているという。

『明治神社史料』によるち、当社を「美濃神名記」にある
土岐郡の「正一位 酒波大神」とする説もあるらしいが、
根拠は「酒(さけ)」と「武(たけ)」の訓が近いからだとか。
鎮座地の郡も違うので信憑性は薄いようだ。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:53 午後