佐用都比賣神社 (佐用町)

兵庫県の 佐用都比賣神社(佐用町) を掲載しました。

兵庫県の佐用町にある。
中国自動車道・佐用I.C.の南西500mほど、
JR姫新線・佐用駅の北東1Kmほどの本位田甲に鎮座。

境内入口は南向き。
参拝した日はあいにくの曇天で、ちょっと暗め。
参拝日は正月四日。
当社の東数百mの位置に佐用町消防本部があるようで
境内の周囲に消防車が多く止まっており、境内では出初め式の最中だった。
参拝すると邪魔になるかもしれないと思い、周囲を散策して戻ってみると
出初め式は終わって、境内は無人になっていた。

境内入口の鳥居の脇に「縣社佐用都比賣神社」と刻まれた社号標。
参道の左脇には「續日本後紀 播磨風土記 記載神社標」と刻まれた神社標がある。

参道を進むと、砂利の境内。
社殿は拝殿・本殿ともに入母屋造。
本殿の形が、播磨国一之宮・伊和神社とよく似ている。
拝殿の扁額には「佐用姫大明神宮」。
拝殿の前に、ドラえもんのコケシのようなものがあるのだがなんだろう。

創祀年代は不詳。
通称は、佐用姫さん。

式内社・佐用都比賣神社に比定されている古社で、
『続日本後紀』には仁明天皇嘉祥二年(850)
「播磨国佐用郡佐用津姫神社預官社」とある神社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:39 午前

品川神社 (品川区)

東京の品川神社(品川区) を掲載しました。

東京都品川区にある。
京浜急行の新馬場(しんばんば)駅の北西100mほどの北品川に鎮座。
駅を出て、第一京浜を渡ると、境内入口の鳥居が建っている。

当社の鳥居には左右の柱に双龍の彫刻が施された珍しい形式。
左の柱に昇龍、右の柱に降龍が参拝客を迎えてくれる。

鳥居の右手には「元准勅祭品川神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり、参道の階段を上ると境内だが、
参拝当日には、階段から境内の右手で、樹木の枝葉を落とす作業をしており
階段の中央に赤いコーンが並んでいた。

階段の中ほどから、左手にゴツゴツした富士塚がある。
明治二年、北品川宿の丸嘉講講中三百人によって造られたもので
神仏分離で破壊されたが、明治五年に再築され、
大正十一年、第一京浜国道建設にともなって移築されたもの。
階段を上ると富士塚の脇に境内社の浅間神社が祀られている。

参道を進むと幾つかの鳥居があり、正面に入母屋造の拝殿。
屋根は青い銅葺きで、柱は朱。壁は白くて堂々とした構え。
拝殿の後方には流造の本殿がある。

本殿の裏手から南側に、板垣退助の墓所がある。
「吾死スルトモ自由ハ死セン」という言葉で有名な明治の政治家。
板垣退助の他にも幾つかの墓が並んでいるが、板垣家縁の墓だと思う。
その場所は、元は東海寺塔頭高源院の敷地だったが
関東大震災後に高源院は移動され、この墓所だけが残されたらしい。

拝殿の右手には、阿那稲荷神社が祀られている。

阿那稲荷社は、上社と下社に分かれており、
下社の社殿内に、八百萬神社・大國主恵比須神社・天王白龍辨財天社の
三つの祠と、一粒萬倍の泉がある。
上社は天の恵み、下社は地の恵みと霊泉で、天・地・水の恵みを祀ったものらしい。
一粒萬倍にはザルが置かれていて銭を洗うと、
文字通り「萬倍」になるらしいので、持っていた小銭を洗ったが
紙幣を洗えば良かったかもしれない。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:35 午前

北野神社 (栄村)

長野県にある、北野神社(栄村) を掲載しました。

東日本大震災が発生した2011年3月11日の翌朝
3月12日午前3時59分16秒、
長野県・新潟県県境付近で震度6強の直下型地震が発生。
その後も大きな余震が続き、甚大な被害を受けた栄村。

僕は現在長野県に住んでいるが、東京で東日本大震災に遭遇し、
長野へ戻るため、東京駅でJRの復旧を待って夜を過ごしていた。
朝には新幹線の点検も終わり、長野に戻れるだろうと思っていた頃
駅のテレビで、この長野県北部の地震を知った。

その地震から一カ月が経過した4月15日、栄村に行ってみた。

地震直後は通行止めだった栄村への道路も復旧しており、
4月になって暖かい日々が続いたので、そろそろ神社参拝をと思ったのだ。

カーナビによると、自宅から栄村までは約100Km。
日の出に輝く山々を見ようと早く出発し過ぎて、栄村に到着したのは朝の4時。
道路脇の空き地に車を止め、徐々に明るくなって
やがて輝きだす新潟県との県境の山並みを眺めながら朝を待った。

ということで、
当社は、長野県の栄村にある。
JR飯山線・森宮野原駅から南へ8Kmほどの北野に鎮座。

栄村は長野県の最北部に位置し、新潟県との県境に接している村。
森宮野原駅から当社へ向かう場合も、
千曲川に沿って117号線を東へ進み、一度新潟県に入って最初の信号を右折。
右折後、すぐに長野県側に戻って、
千曲川の支流・北野川に沿って507号線を南下する。

当社へ向かう車道の脇に赤い大きな鳥居が立っており北野天満温泉などがある。
参拝ついでに寄ってみたが、あいにく休館している様子。
あきらめて、当社へ向かう。

当社手前で車道が狭くなって、車道は木々に囲まれた参道になる。
境内入口には、赤い鳥居が建っており、鳥居扁額には「梅鉢」の紋。
境内には、1m以上の雪が積もっていた。
地震の倒壊対策として、境内灯籠には木で支えが付けられている。

拝殿前には大きな雪の塊があり、正面で参拝ができない状態。
拝殿の広報にある本殿の周りにも雪が積もっている。

当社境内から車道を越えて、北野川に下りると学問の橋があり
北野天萬温泉に続く道があるらしいが、その坂道に、
雪解け水が川のように流れていたので下りていない。

急に思い立ったので当社の由緒は未確認。

正式名は北野神社だが、一般には北野天満宮と呼ばれている神社。
栄村のホームページに唯一紹介されている神社なので
栄村では一番有名な神社なのだと思う。

車道や民家の周辺は、綺麗に除雪されているのだが、
神社境内のほとんどは、深い雪に埋もれ、参道も1m以上の雪で歩けない状態。
凍って固くなった雪の上を歩いていると、突然、ズボッと膝まで沈み
油断していると太股まで埋まる。

また、主要な道路はほとんど復旧されており、
亀裂は埋められ、段差も運転には支障の無い程度に修復されているのだが
少し入ると、道路の亀裂や路肩の崩落が残っており、
まだまだ多くの道路が通行止めとなっていた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:20 午前

倭文神社 (朝来市)

兵庫県の 倭文神社(朝来市) を掲載しました。

兵庫県朝来市にある。
播但線・生野駅の北3Kmほどの生野町円山に鎮座。
播但連絡有料道路の生野北第2ランプのすぐ北に境内がある。

社前を川が流れており、赤い橋のさきに鳥居。
橋を渡り、鳥居をくぐると、左手に手水舎があり、
数段の階段を上ると社殿のある境内。

境内奥、参道の正面に瓦葺入母屋造の拝殿があり、
拝殿の後方に流造の本殿。
拝殿の扁額には「式内 倭文神社」と記されている。

拝殿の右手に、境内社・秋葉神社。

当社社号の倭文は「しどり」あるいは「しとり」と読むと思う。

資料や境内案内板にも「しどり」と書かれていた。
ただし、『平成祭データ』には「いもん」となっていた。
ひょっとしたら記載ミスなのかもしれないが、
個人的に意表をつかれて面白かったので、
とりあえず「いもん」としておいた。

創祀年代は不詳。
境内案内板には、和銅五年(712)の創建。

式内社・倭文神社に比定される古社で
近世には聖儒大明神、鮭ノ宮とも称された神社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:47 午後

神門神社 (日高町)

兵庫県の 須谷神社(日高町) を掲載しました。

兵庫県豊岡市にある。
江原駅の西5Kmほどの日高町荒川に鎮座。
482号線を西へ進み、稲葉川と接するあたりで
268号線(十戸養父線)に入って1Kmほど南下すると、
268号線の東側に境内がある。

境内入口は南向き。鳥居の前に大きな灯籠があり、
その前にキティらしき飛び出し注意の看板。
灯籠の右手に境内社らしき小社が祀られている。

鳥居をくぐると綺麗な植栽の参道。
参道の奥に神門を兼ねたような割拝殿があり、
その奥は、木々に囲まれた神域で、
どっしりとした瓦葺入母屋造の本殿がある。

写真が小さくて見えにくいが、
本殿の背後や周囲は、背の低い石垣に囲まれている。
なんとなく「丁寧な仕事」という言葉が浮かんだ。

創祀年代は不詳。

山王大権現とも称される神社で、
式内社・神門神社に比定されている古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:27 午後

伊達神社 (亀岡市宇津根町)

京都府の 伊達神社(亀岡市宇津根町) を掲載しました。

京都府亀岡市にある。
亀岡駅の北西1.5Kmほどの宇津根町東浦に鎮座。
402号線から405号線に入り、山陰本線を越えて
北へ100mほど進むと、寺の南に境内がある。
寺の名前は、境内案内には「宝蔵寺」と書かれていたが
資料書籍や地図には「法蔵寺」とある。

境内の入口には石鳥居があり、鳥居の右脇に社号標。
社号標や鳥居扁額には「延喜式内 伊達神社」と書かれている。

鳥居をくぐると、正面には境内社の稲荷社。
参道を左に曲がると鳥居があり、奥に社殿。

社殿は、拝殿はなく本殿だけのシンプルな構造。
だが、その本殿を覆うように大きな瓦葺の覆屋があり
僕には小さな城のように思えたのだが、
今考える、それはちょっと違うかもしれない。

境内案内によると、本殿は
切石積基壇の上に土台をすえて建てられていると記されている。

創祀年代は不詳。
延享四年(1747)の大堰川の氾濫により、
隣接の宝蔵寺とともに流出してしまったため古記録が残っていない。

式内社・伊達神社の論社。

『式内社の研究』には、本殿下に清泉が湧いているとあり
古代では湧水も湯と言ったらしく、湯立が訛って伊達となったと。

一説には、陸奥の藤原秀衡の三男泉三郎忠衡の別荘があり
その霊を祀って伊達宮と称したとか。
また、加塚の同名社から分祀されたとも。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:42 午後