坂本神社八幡宮 (中津川市)

岐阜県の坂本神社八幡宮(中津川市) を掲載しました。

岐阜県中津川市にある。
美乃坂本駅の東2Kmほどの千旦林に鎮座。
中央本線の南側の道を東に進むと、参道入口に「式内 坂本神社 八幡宮」と刻まれた社号標が立っている。

当社の正式名は八幡神社だが、社号標や由緒石碑に「坂本神社八幡宮」とあり、当サイトもそれにならって記述する。

参道入口から北へ進むと鳥居が立っており、さらに北上して線路を越えると社域の森が見えてくる。

社前には御社宮社と秋葉社が祀られ、池の中には弁天社。
境内入口にも社号標があり、右手に手水舎。
鳥居をくぐり、神橋を渡って、階段を上ると社殿のある境内。

境内中央に拝殿があり、右手に社務所。
拝殿の後方、階段を上ると左手に御神木、右手に御鍬社の祠。
さらに階段の上ると中門があり、垣に囲まれて流造の本殿。
本殿の右手に境内社の祠があり、祠の前には熊野社・神明社・白山社・諏訪社の社名を刻んだ石柱が立っていた。
また、境内の右手奥には赤い鳥居の稲荷社が祀られている。

参拝は晩秋、十一月の末頃。
あいにくの雨だったが、雨に濡れた境内や社殿、樹木は良い雰囲気だった。
参拝後、社務所に寄ろうと思っていたが、会合のようなものが開かれており、遠慮した。
神職が常勤しておられるようなので、御朱印は次回に。

社伝によると、大宝二年(702)、里人の霊夢によって豊前国宇佐八幡より勧請されたという古社。
社宝に十三体の木彫りの神像があり、九体は冠束帯、二体は烏帽子狩衣、二体は僧形で、背中に観応三年(1352)の年号が書かれているらしい。

中山道の要衝に位置し神坂峠を越える旅人が道中無事を祈願した神社であるということで、当社は式内社・坂本神社の論社であり、通称も坂本神社八幡宮と称している。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:49 PM

箕曲神社 (伊勢市)

三重県の箕曲神社(伊勢市) を掲載しました。

三重県伊勢市にある。
伊勢市駅の北東2Kmほどの小木町に鎮座。
23号線から南に入った場所にあるショッピングセンターの南隣に境内がある。
ということで、買い物ついでにショッピングセンターに車を停めて参拝。

境内入口は東側だが境内の向きは南向き。
鳥居の脇に「箕曲神社」と刻まれた社号標が立っている。
その社号標の横に南向きの鳥居が立っており、小さな石が祀られていた、その石の前には穴(盃状穴?)のあいた石が置かれていた。なんだろう。

境内の南側には蕃塀らしき板塀があり、さらに鳥居があって、その奥に社殿。
鳥居の脇には御神木が立っている。

砂利の敷きつめられた境内や拝殿・本殿などは伊勢周辺に多い形式。
拝殿の後方、玉垣に囲まれて神明造の本殿が美しい。

創祀年代は不詳。
古来、小木社と称して、小木村の産土神として奉斎された神社。

『式内社調査報告』によると、式内社・川原淵神社の旧地として「伊勢市小木の曽禰社」の名が載っているが、それは現在合祀されている曽根社のことだと思う。
川原淵神社は中世に中絶し、現在、船江上社の東隣に再興されている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 11:59 PM

比志神社 (北杜市)

山梨県にある、比志神社(北杜市) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央自動車道の須玉I.C.の北東11Kmほどの須玉町比志に鎮座。
塩川に沿って走る23号線を進み、比志の集落あたりで北へ入り、塩川を渡るとすぐ、当社の杜が見える。

参道入口は西向き。
塩川に副うような境内は細長く、かつては河原、あるいは中州だったような雰囲気。

両部鳥居の右脇に「郷社比志神社」と刻まれた社号標が立っており、鳥居扁額には「国史現在 比志神社」と記されている。

鳥居をくぐり参道を進み境内に入ると神門があり、神門をくぐると正面にどっしりとした拝殿がある。
境内の左手には神楽殿。拝殿の後方、覆屋の中に流造の本殿。
本殿は室町時代の大永八年(1528)、飛騨の内匠によって造営されたものらしい。

拝殿の左手には県指定天然記念物の大スギ。
案内板には、樹齢は推定5~600年で、樹高は33mとある。

創祀年代は不詳。
社伝によると、大宝元年(701)九月十五日、比志の西北隅の御崎平に鎮座し、大永二年(1522)、あるいは正長元年(1428)、御崎平より現在地に遷祀。
大永八年(1528)、日向大和守是吉一族が本殿を改修したという。

六国史の『三代実録』貞観五年(863)十月六日に、「甲斐國正六位上比志神並授從五位下」と記されている国史現在社であり、式外の古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:50 PM

安布知神社 (阿智村)

長野県にある、安布知神社(阿智村) を掲載しました。

長野県の阿智村にある。
阿智町役場の北500mほどの駒馬に鎮座。
153号線から北へ入り、小学校の脇の道を進むと参道入口。
鳥居の右手に「郷社安布知神社」と刻まれた社号標が立っており、鳥居をくぐり、なだらかな参道を上ると社域の杜。
境内の後方には中央自動車道が走っている、そんな場所。

参拝は晩秋の日の早朝。日の出前。
写真ではわかりにくいが、まだ薄暗い境内には多くの紅葉の落ち葉。

境内左手の駐車場に車を停め、境内に入り階段を上ると正面に社殿。
入母屋造の拝殿の後方、一段高く流造の本殿があるが、本殿は覆屋の中で、細部は確認できなかった。

参道入口に「武田信玄公火葬塚 入口」という案内板が置かれていた。
境内の右手の道を上って行くと、武田信玄が火葬されたと伝えられる塚があるらしい。
信玄の墓は甲府市内にあるが、信玄の死は秘されていたためか、信玄が死亡し荼毘に付されたと伝えられる場所がいくつかあるようで、ここもその一つなのだろう。
参拝を終えて、右手の道を上って行き、高速道路の下を通ってさらに上ってみたが見当たらず。
もう少し上って確認するつもりだったけど、急にトイレに行きたくなり、社前の公衆トイレまで急いで戻ったので、火葬塚には行っていない。
このページを作成している今、もう一度戻って行けば良かったと後悔している。

創祀年代は不詳。『式内社調査報告』によると式内社・阿智神社の論社であるらしい。

社伝によると、人皇十六代仁徳天皇五十六年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現われ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見いだし、この鏡を御霊代として祠を建てて祀ったのが当神社の創祀。

祭神は天思兼命。
『先代旧事本紀』によると、天思兼命とその子・天表春命は共に信濃国に天降り、阿智祝部等の祖となったと記されており、昼神の阿智神社同様、秦氏あるいは阿知使主一族などの帰化人系により奉祀された天孫系の神社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:10 PM

越中白山総社 (富山市)

富山県にある、越中白山総社(富山市) を掲載しました。

富山県富山市にある。
富山駅の南2Kmほどの中野新町に鎮座。
社前を南北に走る43号線には、路面電車(富山市内軌道線)の線路も走っており、境内入口は43号線に面して西向き。

境内入口に「郷社白山神社」と刻まれた社号標が立っており、『明治神社誌料』にも「白山神社」とあるが、『富山県神社誌』には「越中白山総社」と記され、境内の由緒書きでは昭和二十二年に改称されたとある。

鳥居をくぐり参道を東に進むと、もう一つの鳥居。
その鳥居をくぐると左手に手水舎があり、正面に社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造で、後方の本殿はコンクリートの覆屋の中。
拝殿の前には、宝来石鍋は置かれている。

明治十年、富山市内でコレラが大流行した時、当社の氏子には病人が出なかった。
この御神徳に氏子達は宝来山(曳山)を曳いて感謝していたが、明治三十二年の大火で焼失。
昭和三年、御大典の時に再現されたが、戦災で焼失。
宝来山を後世に伝えるために奉納された石鍋らしい。
病気には霊験があるが、火災には弱かったのだろうか。石鍋なら火災にも安心だ。

創祀年代は不詳。再三の炎上により古記録も残っていないらしいが、往古、新川郡太田の保、布市村に勧請され、後醍醐天皇延元年間(1336~1340)には白山妙理大権現と称されていたという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:38 PM

酒折宮 (甲府市)

山梨県にある、酒折宮(甲府市) を掲載しました。

山梨県甲府市にある。
中央本線・酒折駅の西300mほどの酒折に鎮座。
411号線の酒折宮入口交差点から参道が北へ続き、鳥居が立っている。
その鳥居をくぐり参道をさらに進み、中央本線の線路を越えると境内入口がある。

鳥居をくぐると、右手に「酒折宮」「日本武尊御舊跡」と刻まれた社号標。
境内の左手には「新治筑波」で始まる連歌之碑が立っており、奥には、寛政三年、本居宣長が撰文し平田篤胤の書による「酒折宮壽詞」、宝暦十二年、山縣大弐が撰文し加藤翼の書による「酒折祠碑」の石碑が建っている。

参道を進むと正面に社殿。
拝殿も、その後方一段高い場所にある本殿も神明造。
拝殿には当社の神紋である「五七の桐」の紋が染められていた。

境内の東に高校があり、高校側(東側)からの参道にも鳥居が立っているが、その扁額には「八幡宮」とあった。

日本武尊が東夷征討の帰路、当国にお入りになり塩海足尼を召して、「汝はこの国を開き、益を起こし国民を育てよ、わが行末はここに鎮座すべし」といわれ、叔母である倭姫から授けられた火打嚢を賜わった。
のち社殿を建立し、その火打嚢を御霊代として奉祀したという。

また、当社は『日本書紀』に以下のように記述されている酒折宮の跡。

蝦夷を平らげられて日高見国からの帰り、常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮においでになった。
灯をともしお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか(新治筑波過幾夜寝)
従者は答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、日数を重ねて、夜は九度、昼は十日でございます(計夜九夜日十日)とお答えした。
御火焚の賢いのを誉めて、厚く褒美を与えられた。

この時の歌のやりとりが、複数の作者によって詩を連作する連歌の発祥であるという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:29 PM