中尾神社 (八代町米倉)

山梨県にある、中尾神社(八代町米倉) を掲載しました。

山梨県笛吹市(旧八代町)にある。
中央本線石和温泉駅の南8Kmほどの八代町米倉に鎮座。
浅川にかかる米倉橋の南詰から畑の中の車道を東へ進むと、突き当たりに社域がある。
このあたりはリニア実験線が通っているらしく、社域の後方にリニアの線路が走っている。(2014年4月現在)

社域といっても鳥居はなく、空き地の中に石祠が一つ。
石祠の台座の部分に「中尾神社」と刻まれている。

その石祠の少し前、結界の中に丸石が祀られている。
山梨には、丸石を社頭に祀る神社が多いが、それと同じものだろうか。

当社は通称、中尾さん。昔は中尾明神と呼ばれていたらしい。

『山梨県神社誌』によると、「飯田氏の聞書に曰く」、昔は大社にて毎年西郡三輪ノ社へ神幸ありしが、何れの頃か廃して小祠となり神幸の道筋もみな民家の居宅となったという。

また、当社が式内社・中尾神社であるという。
『式内社調査報告』にも当社のことは追記として記されているが、一般に式内社・中尾神社は一宮町中尾の中尾神社と考えられている。

ただ、このように廃絶した社域にポツンと祀られ、祭祀を継続されている状況に心惹かれるのだが。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:57 PM

伊勢寺神社 (松阪市)

三重県の伊勢寺神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の西7Kmほど、伊勢道の松阪I.C.からは南に1Kmほどの伊勢寺町に鎮座。
59号線が45号線と分岐する場所に社域の杜があり、遠くからでもわかる。

参道入口は南向き。
鳥居の脇に「村社伊勢寺神社」と刻まれた社号標が立っている。

鳥居をくぐり参道を進むと社殿のある境内。
参道の左手、境内の前は参詣者用の広い駐車場になっている。

境内入口の鳥居をくぐると、右手に手水舎、正面に拝殿。
拝殿の奥、垣に囲まれて神明造の本殿がある。

本殿の左手に境内社があり多くの方の名前を刻んだ石碑が立っているが祖霊社なのだろう。

境内の右手には、靖国神社、皇居、神宮と刻まれた石碑があり、それぞれの遥拝所となっている。

参拝は三月の雨の日。空はどんよりとした雲に覆われていたが、快晴の日なら美しい杜なんだろうな、などと思いながら参拝。
参拝後、雨が強くなって来たので、しばらく駐車場に停めた車の中で寝ていた。

社伝によると、寛正二年(1461)当村で疫病が流行し、疫病鎮めの神として有名な一志郡多気村の牛頭天王を当地に勧請し高福大明神と称したのが始めという。

後に牛頭天王社と改称し、明治初年に再度高福に戻したらしい。

その後、明治四十一年四月五日より、伊勢寺町の式内社・堀坂神社、式内社・物部神社ほか二十七社を合祀し、昭和五年四月二十日、鎮座地名をとって伊勢寺神社と改称した。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:05 AM

大神社跡 (松阪市)

三重県の大神社跡(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の西5Kmほどの深長町、泉の森と呼ばれている公園のような場所にある。

伊勢道の松阪I.C.へ向かう59号線から少し南へ入った場所。
ここから西へ1,5Kmほどで伊勢道に到着する。

泉の森と呼ばれるこの森には、いくつかの泉があるようだが、雨が降っていたので散策はしておらず、肝心の泉の写真が無いのだ。

その森の入口に案内板があり、案内板のすぐ近くに小さな祠がある。
泉の森は大神社の境内地だったようで、この祠が大神社跡を示すもののようだ。

祠の中には石仏が安置され、祠の脇には石を組んだ祭祀跡が残されている。

当社の社号「大神」の正しい読み方が判らないので、とりあえず奈良の大神社と同様の読み方にしておいた。

創祀年代は不詳。一説には大宝年間以前であるという。

『式内社調査報告』によると、ここに鎮座していた大神社が、式内社・大神社の論社であるという。

当社の古い扁額には「大和大明神」とあり、大和社とも呼ばれており、飯南郡第一の大社であったが、明治になって村社に列し、明治四十一年四月、伊勢寺村内の二十七の村社とともに高福神社に合祀され、高福神社は伊勢寺神社と改称された。

当社境内の泉は、近隣の田畑を潤すだけでなく、茶の湯にも使用され、松阪城主から社領を給わったという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:06 PM

伊佐和神社 (松阪市)

三重県の伊佐和神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
紀勢本線の相可駅の北1Kmほどの射和町に鎮座。
160号線を北上して櫛田川を渡り、射和町交差点付近から北東へ狭い道を入ると当社の前に到着する。

境内は、その道に面して南東向き。
石の鳥居の左脇に「延喜式内伊佐和神社」と刻まれた社号標が立っている。

鳥居をくぐり参道階段を上ると社殿のある境内。
拝殿は入母屋造瓦葺で、後方に一段高く、神明造の本殿。

参拝は3月の雨の日の朝。
砂利の境内に落ちる雨音が心地よく響く、静かで清涼な神域。

かつて射和町は、産土八王子(上社)と産土牛頭天王(下社)という一村二社の産土神を持つ形式であった。
明治になって上社を射和神社と、下社を八重垣神社と改め、明治四十一年、八重垣神社に射和神社を合祀して、伊佐和神社となったらしい。

この合祀された上社・射和神社が式内社・伊佐和神社に比定されている古社。
かつては、射和寺薬師堂の境内に射和社として存在していたが、文化十二年(1815)、洪水によって、射和町の字会下前(射和小学校の裏付近)に遷座したという。

射和社を八王子と称するのは、境内に八王子社があったためだそうで、射和の地名は、日本書紀に神武天皇が大和へ向かう途中、兄磯城、弟磯城の宅へ
頭八咫烏を遣わした時、烏が「天神子召汝。怡奘過(いざわ)、怡奘過(いざわ)」「天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ」と鳴いた故事によるらしく、本来の祭神は、建津奴身命(八咫烏)。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:51 PM

古八幡神社 (甲府市)

山梨県にある、古八幡神社(甲府市) を掲載しました。

山梨県甲府市にある。
甲府駅の北2.5Kmほどの古府中町に鎮座。
31号線(武田通り)を北上し、武田神社に突き当たって西へ。
相川小学校の南西隅にあり、社前に武田神社の駐車場がある。

階段を上ると、峰本自治会館の建物があるが、その裏手に当社がある。
裏手といっても自治会館と離れておらず、自治会館が通常の神社の拝殿のような位置関係。
裏に回ると、石祠や事比羅大神と刻まれた石柱が立っており、自治会館脇から入る扉がある。

扉を開けて中に入ると、木造の祠が一つ、東向きに祀られている。

資料などによると、当社の正式名は「八幡神社」。通称は「古八幡神社」。
自治会館の案内板では鎮座地名を含めて「峰本古八幡神社」と記されていた。

もとは甲斐国総社として崇敬された神社。

甲斐源氏の始祖新羅三郎義光より四代石和五郎武田信光が、承久年中、鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を石和の館に勧請。
武田家の氏神として国衞八幡宮(今石和若宮八幡)と称へ尊崇。

永正十六年、武田信虎躑躅ヶ崎に築城の際、躑躅ヶ崎館(現武田神社)の西方の現社地に遷座された。

その後、浅野長政天正十二年、甲府城を築城の際し文禄四年、宮前の地に遷座されたのが現在の八幡神社。

古社地には、当社・古八幡神社が当地の氏神として祀られてきたが、
相川小学校の開校や体育館の建設などで、社地が数度移転したようだ。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:00 PM

蘭宇氣白神社 (松阪市)

三重県の蘭宇氣白神社(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の西22Kmほどの柚原町に鎮座。
166号線を西へ進み、伊勢道を越えて29号線へ。
29号線を9Kmほど西へ進んで、柚原町で南下する道へ入って1.4Kmほどの場所に境内がある。

川を背にして、東向きに鳥居が立っており、鳥居の左脇に「蘭宇氣白神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐり神橋を渡ると、参道は左手(南)に折れ、川沿いの道には木製の鳥居が並んでいる。

その鳥居をくぐると、突き当たりに手水舎。
そこで、川を背にして、参道を右手(西)へ進むと参道階段が上に延びており、
階段上に社殿。階段の左手には数本の巨木。
夫婦杉と呼ばれる、根元で繋がった2本の杉の巨木が二組あり、歴史の深さを実感する。

参拝は3月の雨の日。
式年遷宮を終えた伊勢神宮に参拝し、三重県滞在の最終日。
本来は松阪市内の神社にお参りして長野県へ戻る予定だったけど、あいにくの雨。
雨の市街地での運転は面倒くさいので、松阪市のはずれにでも行こうと、山間部の地図を眺めていて「蘭宇氣白神社」という社名を発見。
感覚的に「白い蘭の花が群生している場所」などを期待して来て見れば、そこは、川と巨木の清涼な神域だった。

当社の蘭は、花の蘭(ラン)ではなくアララギと読み、イチイの別名らしい。
「化物語」が頭をよぎるが、夜、独りで参拝するのは覚悟がいるかも。

創祀年代は不詳。

明治末期の一地区一社の合祀令により、宇気郷地区の氏神として、当地にあった蘭神社に、宇気比神社(与原・後山町)、白山神社(飯福田町)の旧村社を合祀し、各社の社名を取り組み合わせて「蘭宇氣白神社」の社名とした。

蘭神社のアララギに関して、『三重県神社誌』には、当地には、このアララギに対する信仰があり、境内に六樹存在するとあるが、参拝時には知らなかったので未確認。

また、明治二十二年の町村合併で「宇気郷」という新村名が作られたが、この地域周辺に多く宇気比神社が分布していたことによる。
「宇気比」とは記紀にある誓約(うけひ)のことであり、須佐之男命と天照大御神によって誕生した五男三女の八柱の神々を祀る神社のこと。

八柱の神々から武塔神の八人の王子である八王子を連想され、伊勢では蘇民蒋来信仰が盛んなのだ。
『備後風土記逸文』の蘇民将来神話によると、北海にいた武塔神が、南海の神の娘のもとへ通う時、日暮れてしまい、備後国の地で宿を求めた。
備後国には将来兄弟が居り、弟の巨旦将来は豊かであったが宿を与えず、兄の蘇民将来は、貧しかったけれども、宿を貸す。
武塔神は、南海から八柱の御子を率いての帰路、当地で報復を行うことになるが、蘇民将来の子孫には、腰に茅の輪を付させて目印とし免れたという。
武塔神は、その時「吾は速須佐雄の神なり」と名乗ったという。

蘭神社の主祭神は、その建速須佐之男命だが、アララギのアラが荒ぶる神である須佐之男命に通じるのかもしれない。
また、神に仕える斎宮では仏教的なものを禁忌し、仏教的な言葉を忌み詞として別の言葉で置き換えるが、延喜式の斎宮式には、塔を「阿良良伎」と称するとある。
この塔から、須佐之男命の別名とされる、蘇民蒋来信仰の武塔神に通じるのかもしれない。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:46 PM