八柱神社 (明和町上村)

三重県の八柱神社(明和町上村) を掲載しました。

三重県の明和町にある。
紀勢本線・多気駅の東3Kmほどの上村に鎮座。
529号線を東に進み、上村に入ったあたりで南へ下ると、上村集落センタ―敷地の脇に見えるこんもりとした社域の杜が境内。

境内は「かまくら一号墳」と呼ばれる5世紀後半の円墳(直径27m)で、古墳の上に小祠があるだけの簡素なもの。

境内は東向きで、入口は東側にあり、入口の近くに金剛山大日寺がある。

創祀年代等に関しては不詳。
上村の産神であり明治までは八王子祠と称され、明治二年八柱神社と改称。
明治四十五年五月二十三日、斎宮の竹神社に合祀されたが、昭和四十五年、氏子らの願いにより、古社地西方50mのカマクラ古墳上に小祠を設け分祀した。

合祀前の古社地は、大日寺東南隅。
『式内社調査報告』によると、合祀後の圃場整備で失われたとある。
大日寺南に広がる田圃が古社地なのだろう。
大日寺境内東南隅に祠が一つあったので、関係は無いと思うが掲載しておく。

南東300mに「カゴ山」と称する標高30mの山丘があり、カマクラ古墳同様の円墳がいくつかあり、カゴ山古墳群と呼ばれているらしい。
よって、当社は式内社・天香山(アマノカゴヤマ)神社の論社と考えられている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:50 AM

上宮古神社 (玉城町)

三重県の上宮古神社(玉城町) を掲載しました。

三重県の玉城町にある。
伊勢道の玉城I.C.の東1Kmほどの宮古に鎮座。
廣泰寺の南、民家の間にある路地の奥に小さな境内がある。

参道入口は東向き。
石灯籠と石の鳥居が建っており、鳥居の脇に「上宮古神社」と刻まれた社号標。
道を挟んで鳥居の向いの石垣に「石敢當」の石碑が建っている。

一般に悪鬼は直進する性質があるため、道を直進してきた悪鬼がT字路にぶつかると、その家の中に進入することになる。そこでT字路などの突き当たりにこの「石敢當」を置き、魔よけとする。
当社境内から何かが出てきて家に侵入することを抑えているということだろうか。面白い。

鳥居をくぐり参道を50mほど進むと、小さな林の中が境内。
木製の鳥居と小祠があるだけの簡素な神社。
たしかに、何かが潜んでいる雰囲気はある。

当社の創祀や由緒に関しては未確認。
『三重県神社誌』にも当社の記載は無い。
ただし、小社曽の下外城田神社の説明の中に、「宮古より上宮古神社の八柱、金比羅、山神を、(中略)合祀して・・・」とあり、明治時代に下外城田神社に合祀されたようだ。

その後、元社地に再興されたものか、あるいは合祀後も祭祀が継続していたのだろう。

『式内社調査報告』によると、式内社・奈良波良神社は中世には廃絶し、寛文三年に現在地に再興されたが、薗田守良は、「かく上古は宮古村の奥なる山中に在りつるを、
今は城田郷宮古村の人家の南の松原の中に在り」とし、御巫清直は、その地を廣泰寺寺地に比定して、「サレハ上宮子(ママ)村ノ産土ソ本社ノ衰へナカラモ遺スルナルヘキ」とした。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:01 AM

船形神社 (甲斐市亀沢)

山梨県にある、船形神社(甲斐市亀沢) を掲載しました。

山梨県甲斐市にある。
中央本線竜王駅から北へ6Kmほどの亀沢に鎮座。
亀沢川に沿って走る101号線の西側に境内がある。

101号線を挟んだ向かい側に「亀沢の船石」と呼ばれる大きな岩がある。
当社の社号「船形」の由来となった岩らしい。
案内板によると周囲55メートル、高さ8.3メートルとあるので、道路から見えているのは岩の頂上部、あるいは船の舳先にあたる部分だけなのだろう。
船石の横に消防用のポンプ庫と火の見櫓があるのだが、ちょうど戦艦の機関部のようで面白い。
亀沢川対岸から見ると、全貌が見えるかもしれないが。

昔、土石流か火砕流で上流から運ばれてきたものと考えられているらしいが、形状は滑り台のような三角形。上部には長田智康という方の顕彰碑が建てられていた。

亀沢の船石の向かいに、東向きに境内入口があり、石鳥居が建っている。
鳥居の扁額には「諏訪大明神」とあり、当社は諏訪大明神とも称される神社。
鳥居をくぐり参道階段の上ると神門。
神門をくぐると境内だが、境内社殿は南向き。
境内には横から入る形の神社。境内の南側には市役所の出張所がある。

神門をくぐって振り向くと、神門の脇に大きな岩があるが、前面の苔が剥がれて人物の形が浮き上がって見えて、ちょっとビックリ。
登ってみたい衝動を抑えながら参拝開始。

拝殿は切妻造平入りで、後方には銅板葺流造の本殿がある。

参拝は四月後半の午後、夕方近く。
暗くなるまで境内に座っていようかとも思ったが、お腹がすいてきたので甲府へ向かった。

『山梨県神社誌』によると、霊亀元年(715)九月十五日の創祀。

文徳天皇仁寿元年(851)甲斐守小野朝臣貞村社殿を造営。
後冷泉天皇康平七年(1064)新羅三郎義光朝臣が再建し、その後、武田家代々の造営修理を受けたとある古社。
慶長年中、徳川家より社領高一石九斗余の朱印を受けた。

山梨県には船形神社という名の神社が幾つかあり、古社も多い。
その中で、『三代実録』元慶八年(884)十二月十六日に、「甲斐国正六位上船形神従五位下」とある国史見在社と考えられているのは、高根町長澤の社と高根町小池の社らしく、当社が船形神であるという説は残念ながら、手持ちの資料の中には見当たらないのだが、由緒や船石の存在から、あるいは当社もその候補なのではないかと思って参拝してみた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:08 PM

船形神社 (高根町小池)

山梨県にある、船形神社(高根町小池) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央本線長坂駅から東へ直線距離で5Kmほどの高根町小池に鎮座。
32号線を東へ進み、中央自動車道を越えて、五町田交差点から28号線を南へ。
2Kmほど南下したあたりで東へ入った場所に境内がある。

車道は当社境内の後方、北側を東西に走っており、地図で見ると、境内の南側で小さな川が合流しているのだが、川が枯れているのか水量が少ないのか、参拝時には川に気付かず、云われてみればそうだったかも、という感じの川。
その二本の川が合流して作る三角形の土地、船の舳先のような境内。

車道が後方北側を走っているが、境内全体は南を向いており、表参道も南側。
仕方がないので境内を一度通過して南側から入り直して参拝した。

境内入口には木製の両部鳥居。
鳥居をくぐって緩やかに参道を上ると、二基の灯籠と社殿がある、そんな簡素な神社。
拝殿は入母屋造、本殿は流造。

創祀年代は不詳。『甲斐国志』に、諏訪明神、小池村御朱印社領五石一斗余、相伝えて船形の神社とあるらしい。
また、上下明神を祀るともあり、上宮は建御名方命、下宮は事代主命を鎮斎するとも。

往古は池辺船形山(現在のどこかは未確認)に鎮座していたが、天正年間(1572~ 1592)に現在地に遷座。
安永元年(1772)の火災により、古記録等はすべて焼失した。

『山梨県神社誌』には「古くは式外の古社」とあり、『三代実録』元慶八年(884)十二月十六日に、「甲斐国正六位上船形神従五位下」とある国史見在社ということだろうか。

六月晦日に行われる当社の「夏越祭」、茅輪くぐりは北杜市指定無形民俗文化財に指定されている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:53 PM

八幡神社 (中津川市阿木)

岐阜県の八幡神社(中津川市阿木) を掲載しました。

岐阜県中津川市にある。
明知鉄道阿木駅近くの阿木に鎮座。
駅の東側の狭い車道に「郷社八幡神社」と刻まれた社号標が立っており、そこから東へ細い参道を上って行くと社域の杜がある。

参拝は十一月末の晩秋、曇天の日の早朝。参道の外灯がまだ灯っている頃。
写真を撮るには暗すぎるので、社前右手にある阿弥陀堂の前に車を停めて、明るくなるのを待っている間に雨が降り出した、そんな朝。

参道階段を上ると広い砂地の境内。
境内左手に手水舎があり、正面の石垣の上に社殿。
拝殿は銅板葺入母屋造。後方の本殿は覆屋根の下にある。
拝殿には紅白の幕や笹龍胆が描かれた幕がかけられていた。
『平成祭データ』によると、十一月二十三日に新嘗祭、大麻頒布式が行われるようで、その名残なのかもしれない。

当社境内右手側から山道を上って行くと、阿木城跡へ行けるらしい。

岐阜県神社庁サイトには、当社の由緒について、「文明三年創祀。その他由緒記載なし。」とのみ。(文明三年は西暦1471年)

『明治神社誌料』によると、当社は美濃國神名帳に「従四位上阿氣明神」、延暦寺本には「従四位上河氣明神」とあり、恵那郡七社の一であるらしい古社。

阿木城は、遠山氏が岩村城防衛のために建てた遠山十八子城の一つ。
当社が阿氣明神であるなら、阿木城築城に際して、阿氣明神の地に八幡神が勧請され、「文明三年」はその勧請年なのかもしれないな。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:29 PM

有礒正八幡宮 (高岡市)

富山県にある、有礒正八幡宮(高岡市) を掲載しました。

富山県高岡市にある。
高岡駅の北東1.5Kmほどの横田町に鎮座。
千保川にかかる横田橋を渡るとすぐ、交差点に面して境内入口がある。
境内は、高山右近の意によって奉納された築城様式の石垣に囲まれている。

境内入口は南向き。入口に木製の鳥居が立ち、綺麗に刈り込まれた植木を眺めながら進むと、左右にリアルな随神像。
やや伏し目がちな右大臣、左大臣に挨拶して境内に入るともう一つの鳥居。

鳥居の左手には、高岡市指定文化財の神輿が納められた神輿庫。
左手には手水舎「行啓 御用水」。大正天皇が皇太子時代、高岡行啓のおりに、この水が献上されたらしい。

さらに参道を進むと美しい社殿。
幾重にも屋根を重ねた、いわゆる「八棟造」だが、当社では日本海の荒波を模した「有礒造」と呼んでいるらしい。

綺麗に維持管理された境内には、親子抱き合いの欅や御神木の欅、磐座などが点在し、とにかく美しい。四季折々に違った風景が堪能できそうな、そんな神社。

当社は、有礒神と綏靖天皇を祀る『有礒宮』と応神天皇外三柱を祀る『横田正八幡宮』の二社が合祀された神社。

有礒宮は大和より移住してきた有礒の民(綏靖天皇を奉斎する人々)が、渋谷の浜(現在の高岡市雨晴岩崎の沖合い)に勧請奉斎したと伝えられ、「有礒の海」の守護神として有礒七浦(氷見七浦)の宗社と崇敬された古社。

その後、日本海の荒海による浸蝕が激しく、渋谷の山中(現在の燈台付近)に遷された後、高岡の志貴野の山「山崎の丘」(現在の古城公園、小竹藪付近)に遷座。

さらに、前田利長による高岡築城に際し、慶長九年(1604)、塩蔵下に仮遷座後、慶長十五年(1610)に川原町地内の横田正八幡宮に合祀され、『有礒神社正八幡宮』と改称された。

横田正八幡宮の創祀年代は不詳だが、文明年間(十五世紀後半)に上田丹後守が礪波山より勧請したとも伝えられ、当時は宗泉寺の住職によって奉祀されていたという。
有礒宮との合祀の後、千保川(横田川)氾濫のため、慶長十七年(1612)上田伊勢守の屋敷地内(現在地)に遷座された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:05 PM
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