畠田神社 (明和町)

三重県の畠田神社(明和町) を掲載しました。

三重県明和町にある。
近鉄線斎宮駅の北6Kmほどの中村に鎮座。
23号線中村3交差点から北に入った中村集落の北東隅に境内がある。

境内入口は南東向き。
入口の正面に神宮遥拝所の石が祀られ、その近くに「式内畠田神社」と刻まれた社号標が北向きに立っている。

数段の階段を上ると鳥居があり、鳥居の奥が境内。境内社殿の前にも鳥居があり、境内左手に手水舎。右手には横向きに祖霊社が祀られている。

拝殿は切妻造平入だが左右に突き出して二重になっており、前面には千鳥破風がせり出したような構造。後方の垣の中には神明造の本殿がある。

創祀年代は不詳だが、式内社・畠田神社三座に比定される古社。

『三重県神社誌』によると、平安時代には当地周辺は藤原と称し、一所に三座並立に祀られていたが、吉野朝時代に伊勢国司北畠顕能卿が藤原を、南藤原・中藤原・北藤原の三村に分離。畠田神社三座も三村に分祀されたという。

明治三十九年十二月二十五日、神饌幣帛料供進社に指定され、明治四十一年四月一日、北藤原の畠田神社に境内社八幡社ほか中村の畠田神社、南藤原の畠田神社など旧下御絲地区(中村、北藤原、南藤原、川尻、内座、養川、田屋、志貴、八木戸、濱田、根倉)の二十四社を合祀し、畠田神社と単称。同年十月十日、中村の畠田神社旧社地に遷座し、現在に至る。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:39 PM

石田神社舊跡 (明和町)

三重県の石田神社舊跡(明和町) を掲載しました。

三重県明和町にある。近鉄線斎宮駅の北6Kmほどの養川(ようかわ)に鎮座。23号線養川交差点から707号線を北へ400m入った場所、707号線の西側にある。

東西に長い敷地の西奥に石組があり、その上に「石田神社舊跡」と刻まれた石碑が立っている。当地は、現在中村鎮座の畠田神社に合祀されている石田神社の跡地。

石田神社の創祀年代は不詳。一説には、人皇六十八代後一条天皇の御宇、萬寿二年(1025)十一月二十二日、熊野三所権現を勧請したという養田村(現在の養川)の産神で、熊野三所権現、十二社権現とも称されていたらしい。

明治三十八年十二月十八日、無格社宇気比神社および天神社を合祀。明治四十一年三月二十七日、北藤原鎮座の畠田神社に合祀され、同年八月十三日、その畠田神社は中村へ遷座した。

当社は式内社・石田神社の論社だが、異説も多い。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:47 AM

宇留布都神社古社地 (明和町)

三重県の宇留布都神社古社地(明和町) を掲載しました。

三重県明和町にある。
近鉄線斎宮駅の北6Kmほどの内座に鎮座していた。
23号線の養川交差点から北へ600mほど、小学校の北、幼稚園の横にある。

現在は宇呂豆の大日堂と呼ばれる小さなお堂が立っている。

『式内社調査報告』によると、当地には昔、式内社・宇留布都神社が鎮座していたという。

城主北堂左京大輔崇敬の神社で、元享年中(1321~1324)当地の東200mほどの自然堤防の上に遷座された。

また、弘仁年間(810~824)、空海がこの地に立寄り当社祭神の大日孁命の本地仏として大日如来を刻み、一寺を建てて奉安したという。

保元年間(1158~1159)に兵火にかかり焼失。江戸時代、里の西方大日山(現在地か)に一宇を建て、江戸末期頃に金剛界大日小像を祀ったという。

宇留布都神社は後に八王子社となり、慶応四年、宇気比神社と改称。明治五年、村社に列し、明治四十一年、北藤原鎮座の畠田神社に合祀され、合祀時点の古社地は田圃整備で消滅した。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:45 AM