山梨県にある、武田八幡神社(韮崎市) を掲載しました。
山梨県韮崎市にある。韮崎駅の西3Kmほどの神山町北宮地に鎮座。
韮崎駅から西へ進み、602号線に入って、釜無川にかかる武田橋を渡り、北へ300mほど進んで西へ。602号線を道なりに進むと当社境内に突き当たるが、当社の手前300mほどの位置に当社の二ノ鳥居が立っている。
僕は北の方から当社に向い、途中で602号線に入ったので一ノ鳥居を見ておらず一ノ鳥居があるのかどうかすらわからない。
社前の右手に、ちょっと変わった岩がある。「一石百観音石像」と呼ばれる高さ約1.7mの安山岩に阿弥陀三尊と100体の小さな観音像が刻まれた岩。
もとは北方約五百mの隆岩山玉保寺にあったもので宝永六年(1709)の造立。明治十七年信徒たちによって武田八幡神社神宮寺跡地へ移され、さらに現在地に移されたらしい。
境内入口は、やや北寄りの東向き。石組の上に石鳥居が立ち、鳥居の後方に総門。
参拝は四月後半の朝。朝日を正面に受けた鳥居が良い雰囲気。
総門を迂回して参道を進み階段を上ると舞殿があり、舞殿の後方の階段を上ると当社の社殿。
瓦葺入母屋造の拝殿の左手には、武田勝頼夫人願文の石碑が立っており、拝殿の後方、高い場所に文化財の桧皮葺流造の本殿。
本殿の左手には若宮八幡社(大鷦鷯命)が祀られている。
鎮座地である韮崎市は武田氏の発祥の地であり終焉の地。
甲斐武田家初代武田信義の居館跡をはじめ、多くの歴史的遺産が存在し、当社背後の山には武田信義の白山城跡があるようだ。
武田信義は元服の際に当社において祖父である義清の武田姓に復し、韮崎市を本拠地としたという。
当社の社号は『平成祭データ』には武田八幡宮とあるが境内由緒書には武田八幡神社となっていたので、弊サイトではそれに従った。
祭神は中殿に誉田別命、右殿に息長足姫命、左殿に足仲津彦命、相殿に武田武大神。
社記によると、日本武尊の御子・武田王が当地に封ぜらて薨じ、鰐塚と呼ばれる墳墓に埋葬され、祠廟は居住跡があった桜ノ御所と呼ばれる地に建てられ、武田武大神として祀られていた。
嵯峨天皇弘仁十三年(822)年二月、勅命により武田王を祀る廟(王の宮社)を当地に移し、宇佐八幡を勧請して武田八幡と称したゆえに、鎮座の地を宮地という。
清和天皇の貞観年間(859~876)、京都石清水八幡宮を社中に勧請。
新羅三郎義光いらい甲斐源氏の尊崇が篤かったが、ことに義光の曽孫信義は武田の郷に居館を定めて武田の太郎と名乗り、当社を氏神とあがめて崇敬のかぎりをつくした。