大滝神社 (北杜市小淵沢町)
山梨県にある、大滝神社(北杜市小淵沢町) を掲載しました。
山梨県北杜市にある。
中央本線小淵沢駅の南東2Kmほどの上笹尾に鎮座。
17号線から東へ608号線に入ると鳥居が立っている、
参道を中央本線が横切っているので、歩行者は線路下のトンネルをくぐって参拝する。
車の場合は、608号線を進み、線路を越えてから戻る方向へ。
その車道の脇に、神供石とよばれる大きな石がある。
「大滝社由来」(文化元年、1804年)によると、
「大石の上に一本の篠竹あろければ、旅人急ぎて供物を捧げ三拝九拝し」とあるらしく、
ミシャグジ神が降臨する石だそうだ。
その神供石を回り込んで線路脇を北へ進むと、大滝沸水公園がある。
当社・大滝神社を中心とした公園で、参拝した四月には桜の花が美しかった。
秋には紅葉が美しいらしい。
境内は石垣の上。
拝殿は、どっしりとした銅板葺入母屋造で、後方の本殿は覆屋の中。
資料によると本殿は流造らしい。
社殿の左手には樋を通して清らかな湧水が流落ちている。
僕が到着するのと入れ替えに、近所の方が水を汲んでポリタンクで運んでいた。
この湧水は、大滝湧水と呼ばれ、「日本名水百選」に選ばれている八ヶ岳南麓高原湧水群の一つ。
標高820mの地に湧き出し、水量は日量22000立方メートルで、一年を通して水温は常に12℃。
水田の灌漑やニジマスの養殖に用いられてるらしい。
社前の水田にはわさびが植えられていた。
社伝によると、崇神天皇十年、四道将軍の一人・武渟川別命が当国巡視の時、清水の湧出を御覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と称賛され、みずから祭壇を設けて祭祀し、王子の武川別命を留めて祭主としたのが当社の起源。
火地神社古社地 (明和町岩内)
三重県の火地神社古社地(明和町岩内) を掲載しました。
三重県の明和町にある。
参宮線・多気駅の東2Kmほどの岩内に鎮座。
119号線から529号線へ進み、岩内に入って北の小道に入ると、
狭い道に面して、松高山光安寺が鎮座。その光安寺の入口階段を上ると、
右手に東向きの小祠がある。それが当社・火地神社。
2014年の参拝だが祠は新しい。最近新築された様子。
祠の前には二基の灯籠と鳥居が立っており、
鳥居の前に「禁殺生」「火地神社」と刻まれた石標。
小さな手水鉢も置かれている。
当社の社号「火地」の読みに関しては、 資料によって「ひち」「ほち」「ほと」などがあるようだ。
創祀年代は不詳。
式内社・火地神社の論社だが、現在は竹神社に合祀されているので、
当社は古社地ということになる。
『式内社調査報告』によると、岩内の地名が俗に「伊保知」と読まれ、
式内社・火地神社の論社となったという。
もとは光安寺の裏側、城山にあったが
天文年間北畠倶教が光安寺の前身・観音寺を建立。
寛文二年、光安寺として再興され、境内に火地神社が移転。
神社跡地は畑になっているらしい。
中川熊野神社 (高岡市)
富山県にある、中川熊野神社(高岡市) を掲載しました。
富山県高岡市にある。越中中川駅の南西400mほど、
前田利長が築いた高岡城の城跡である高岡古城公園の南東の中川本町に鎮座。
境内入口は南東向き。
鳥居をくぐると右手に手水舎があり、参道正面に拝殿。
当社の社殿は、2009年9月、火災により焼失し、拝殿は全焼、本殿は半焼。
その後、現在のように修復が完了したらしく、どっしりとした入母屋造の拝殿は、
まだまだ新しい木の色をしていた。
『富山県神社誌』などによると、当社の正式名は「熊野社」。
ただし鳥居や本殿の提灯には「中川熊野神社」。本殿扁額には「熊野神社」とある。
周囲にも熊野社があり、その区別のために鎮座地の中川を冠して通称されているのだろう。
社伝によると、応神天皇の御宇、神託をえて月輪宮として創建された古社。
ついで、宝亀元年(770)八月、国分寺の僧・本覚が当社を中興し、
さらに、熊野権現を当地に奉斎したという。
『富山県神社誌』によると、式内社・加久彌神社を合祀しているとも伝えられているらしい。
また、元慶年中(877~885)、菅原道真公が当社に参詣し、御自筆の勤音経一巻を奉納。
永禄四年(1561)、神保安芸守が社殿を再建。社領百二十石を寄進し篤く尊信。
天正四年(1576)、兵火にかかり社殿宝物等を焼失。
その時、宝田本学(宮司宝田家の祖)が御神体を奉持し現在地に奉遷。
慶長年中(1596~1615)、高岡城主前田利長公奉幣祈願し、当社を深く崇敬。
中川村の産土神として現在に至る。
当社の北東700mほど、高岡高校グラウンドのバックネット裏に、俗に「ボンボン山」と呼ばれる塚があり、定塚と称されている。
当地に住む社僧・宝田利長(宮司の祖)が、永正六年(1509)にこの塚に入定、生きたまま穴の中に入って即身仏となる時に、100年後にはこの地を治める聖者として現れると予言。
ちょうど100年後の慶長十四年(1609)前田利長が高岡城主となったという伝承がある。
松井神社 (伊勢市)
三重県の松井神社(伊勢市) を掲載しました。
三重県伊勢市にある。
参宮線・山田上口駅の南西1.5Kmほどの中島に鎮座。
度会橋西詰から500mほど南、宮川の右岸にある宮川堤の南端に境内がある。
境内入口は南東向き。
22号線の脇道に面して大きな鳥居が立っている。
鳥居をくぐり参道を進み、橋を渡ると、土手のような細長い境内。
境内に右手に手水舎があり、その隣りに「松井孫右衛門人柱堤」と刻まれた石碑。
石碑の横に玉垣で囲まれた小さな祠がある。
祠の中には、祭神・松井孫右衛門命の石像が、
宮川の流れを眺めているように納まっている。
『郷土を救った人々-義人を祀る神社』によると、
当社の創建は大正四年。
伊勢への参宮のため必ず渡らなければならなかった宮川だが、
かつて宮川は大雨が降るたびに洪水となり、堤防が決壊して山田の家屋や田畑が流出し、
多数の死者が出る川だった。
寛永元年(1624)徳川将軍秀忠は、大々的に宮川の堤防を補修させたが、
自然の猛威に勝てず決壊し、その都度改修工事が行われていた。
寛永十年(1633)、大雨のたびに洪水となる惨状をみて、
人柱でも入れない限り堤防は完全にならないだろうという人の話を聞いた山田の松井孫右衛門は、自らすすんで人柱になることを決意。身を清め、神仏に祈って、仏具の鐘を携えて入棺。
棺内より堤上まで竹筒を通し、食物などを入れて、代わる代わる通夜をしたが、
はじめのうちは、竹の筒から鍾の音が聞こえていたが、次第に弱くなり、
三日目にはついに聞こえなくなった。
寛永十年八月二十五日、人々はそこに供養の石像を安置した。