諏訪神社中社 (北杜市大武川)

山梨県にある、諏訪神社中社(北杜市大武川) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央本線の富士見駅の南5Kmほどの大武川に鎮座。
20号線を南下し、立場川が釜無川と合流するあたり、長野県と山梨県の県境でもある釜無川を渡って山梨に入り西へ。大武川の西端に当社の境内がある。

境内入口は東向き。
境内の周囲には動物除けの高いネットで囲まれていた。
入口のネットのフックをはずして入ると正面に鳥居。
鳥居の扁額には「諏訪神社中社」と書かれていたので、当社の正式名は「諏訪神社」だが、当サイトでは諏訪神社中社としておく。

鳥居をくぐると広い境内。
境内の西隅に北向きの社殿がある。
拝殿は流造。後方の本殿は、たぶん覆屋の中に納められているのだろう。

当社一体は石灰岩地で、当社の社叢は石灰岩地帯特有の植物が群生し、山梨県指定天然記念物となっている。

往古、建御名方命が出雲国よりこの地にいたり、武甕槌命と和議を結んだと伝えられ、崇神天皇の御宇、建沼川別命東征の功によって、本州西辺の地に封ぜられ、その孫大臣命、諏訪国造に任ぜられた時、この地に廟を建てたという。よって、当地を大武川と呼ぶ。

境内の案内板によると、諏訪武井祝の日記に諏訪明神、上ノ社、下ノ社のほかに当社を加えて三カ所の諏訪方と称し、当社は中ノ社にあたるとある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:47 PM

八王子神社 (明智町)

岐阜県の八王子神社(明智町) を掲載しました。

岐阜県恵那市(旧明智町)にある。
明知鉄道・明智駅の東200mほどの場所、戦国時代の山城、明知城の北西麓に鎮座。
駅から東へ直進すると境内入口がある。

境内に入ると正面に鳥居。鳥居の脇に「金幣社 八王子神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると参道階段が上に延びており、左手には明智西宮恵美寿神社。
階段を上ると唐門があり、唐門の奥が広い公園のような境内。

参拝は晩秋の十一月。
唐門の脇に御神木の榎があり、周囲の木は真っ赤に色づいていた。

唐門を抜けた境内の東奥に当社の社殿。
入母屋造の堂々とした拝殿に、流造の本殿。
現在の社殿は、延宝四年(1678)、領主遠山半九郎伊次による造営で、
県の重要文化財に指定されている。
社殿の左手前に、当地出身とも伝えられる明智光秀による手植の楓と、光秀建立と伝えられる柿本人麻呂社。こちらも県の重要文化財らしい。

社伝によると天暦三年(949)の勧請。
当時の社領二千石、 明知、串原、高波、浅谷などの諸村を領していたという。

天正二年(1574)三月、武田勢のために明知城と共に焼かれ、その後衰微。
慶長八年卯年(1603)十三代遠山利景により明知城が再興され、当社も寛永十四年(1637)旗本遠山勘左衛門(あるいは地頭遠山藤四郎)により再建された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:33 PM

祭宮神社 (甲府市)

山梨県にある、祭宮神社(甲府市) を掲載しました。

山梨県甲府市(旧中道町)にある。
甲府駅の南12Kmほどの右左口町に鎮座。
358号線を南下して笛吹川を越えて4.5Kmほど。
29号線に入って西へ進み、100mほどで北へ入った場所。
宮沢川を渡ると社域と赤い鳥居が見える。

境内は道路より高い石垣の上。
社前に赤い鳥居が立っており、鳥居の左手に、「右左口の 名のはじめとも お左口さん」と刻まれた石碑。
当社が鎮座地、右左口町(うばぐちちょう)の地名の由来とされているらしい。

その当社の社名に関して。
『山梨県神社誌』には「祭宮神社」とあり、『全国神社名鑑』には「祭宮社」、『生成祭データ』では「斎宮社」、鳥居扁額には「御左口神社」とあって複雑。

御左口の「左口」が「斎宮」「祭宮」と変化したか、あるいはその逆なのかもしれない。

で、鳥居にある「御左口」の読み方。
僕は「みさぐち」だと思っていたが、石碑に「お左口さん」とあり、また、鎮座地名「うばぐち」の由来だとすると「おばぐち」と読むのだろうか。
とりあえず、読み方のわかる祭宮神社を上には記しておいた。

鳥居をくぐり階段を上ると、広場の奥に、燈篭と石祠があるだけの簡素な境内。

創祀年代は不詳。
社伝によると、第二代天皇である綏靖天皇の頃、珊瑚珠姫がこの地に参り、養蚕や農業などを教えたと伝えられ、その姫を農業の神として祀ったという神社。

故に、祭神を食物の神である保食神とする資料もある。

この珊瑚珠姫の珊瑚(さんご)も、左口や斎宮からの変化なのかもしれないし、その逆なのかもしれない。
また、珊瑚珠姫はどのような方か判らないが、斎宮であったのかもしれない。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:21 PM

相生神社 (多気町)

三重県の相生神社(多気町) を掲載しました。

三重県の多気町にある。
紀勢本線の多気駅から東へ1Kmほどの兄国(えくに)に鎮座。
421号線を進むと、421号線の北側に社域の杜が見える。
421号線に「相生神社」と刻まれた社号標が立っており、参道を進むと鳥居。
境内は421号線と櫛田川に挟まれた場所にあり、境内の向きは南向き。
杜の入口にも鳥居が立っており、鳥居の前には砂利を敷き詰めた駐車スペースがある。

参拝は3月の雨の朝。
当社に到着した時には土砂降りだったため、車の中でしばらく寝て、小降りになるのを待っていた。

入口の鳥居をくぐると砂利の境内。左手に手水舎があり、正面に社殿。
拝殿の前、右手には「皇大神宮遥拝所」と刻まれた石柱が立っている。
境内右手に数本の木があり、木の根もとには小さな祠が祀られていた。

拝殿内に入ると、左手に氏子中の戦死者を祀る若宮社。
正面に垣に囲まれた白い神明造の本殿があるが、本殿までの空間に屋根が設置されていた。

創祀年代は不詳。
兄国村の創立に際し、天忍穗耳命を産土神として奉祭したのが始まりという。

式内社・大分神社の所在地に関して、『伊勢式社案内記』には「兄国村黒田山ノ麓、大還ニ清水アリ、是ヲ水分ト云フ」とあり、『神風徴古録』では「大水神社、兄国黒田山」、『古屋草紙』では「兄国水分神社亡社黒田山」とあるらしく、『伊勢式内神社検録』では、当社が大分神社の遺するところとされている。

かつて、多気駅西側の河田地区と、兄国地区の間に、大分という地があったようで、大分神社は、その辺りに鎮座していたと考えられており、多気郡合祀濟神社明細帳には「多気郡兄国村字バンハ」に無格社・大分神社が載っているが、その大分神社は、明治四十年十一月三十日、当社に合祀されている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:26 PM

水神社 (小海町)

長野県にある、水神社(小海町) を掲載しました。

昭和五十六年(1981)発行の『郷土を救った人々―義人を祀る神社―』に、小海町の二つの石祠の記述がある。

一つ目は宝永創建、山口弥兵衞命を祀る弥兵衛明神社。
山口弥兵衞は江戸・三谷町の人で、宝永年間(1704~10)、
小海町に来て、千曲川より3カ所水を取り入れ、箕輪、芦谷、土村、宿渡、中村、本村の地域に十八町歩の田を開墾し、おかげで小海町の人々は、はじめて米を手に入れることが出来たという。
また、一説には、山口弥兵衞は金融業で、開発が困難を極め、予想外の出費に苦しみ、人足費の不払いのために殺され、村人がその霊を祀ったという。

『郷土を救った人々』によると、弥兵衛明神社に関して、「小海駅より千曲川左岸を二キロほど遡った箕輪部落の急峻な山中に石の祠が深い草の中に鎮まってゐた。」「石祠の前には、弥兵衛大人が測量のときに腰かけたと伝えられる樹齢三~四百年はあろうかと思はれる三本の老松があり、その真下には千曲川の流れが美しい」とある。

残念ながら、箕輪集落は千曲川の右岸にあり、また、千曲川そばには急峻な山中という場所が見当たらない。

二つ目は享保創建、山口弥兵衞のあとをついで開発に尽力した城土丈右衛門命を祀る水神社。
城土丈右衛門は小県郡長窪古の人で、弥兵衞ののちに箕輪に十町歩の新田を開発。
しかし、事業が未完成のまま享保十一年(1727)に死亡。
当時の名主新津與惣治が土村組を指揮して完成させたという。

『郷土を救った人々』によると、水神社に関しては、「弥兵衛明神から更に山奥に進んだところ」としか記されていない。

上記の弥兵衛明神社と水神社に関して、平成七年(1995)神社庁発行の『平成祭データ』には水神社の名前しか載っておらず、祭神は山口弥兵衞命となっており、二祠が一つになっているような雰囲気。
『郷土を救った人々』発行からは30年以上経過しているので、当時のままではないのかもしれない。

ということで、この二つの石祠を探しに箕輪へ行ってみた。が、結果としては、判らなかった。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:48 PM

藤武神社 (北杜市)

山梨県にある、藤武神社(北杜市) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央本線長坂駅の南西、直線で1Kmほどの長坂町中丸に鎮座。
606号線だと2Kmほどの距離にあり、606号線から少し北へ入った場所。

境内入口は南向き。
参拝は四月の後半、鳥居の脇にはまだ桜が咲いていた。
鳥居をくぐると、鬱蒼と樹木の茂った境内。
参道を北上すると、右手に神楽殿、左手に社務所があり、正面に社殿。
拝殿は入母屋造平入りで、後方の本殿は覆屋の中。

社殿の左手から後方に、境内社の石祠が並んでいるが詳細は未確認。

参道の途中、左右に丸いモノが置かれていた、というより埋まっていた。
鳥居の脚部だけ、という感じだが、なんだろう。
昔は鳥居が立っていたんだろうか。

社伝によると、景行天皇四十年、日本武尊東征の時、この地に至りて、軍旅に携えていた竹の鞭(むち)を埋めて一社を創建したという。
ゆえに、鞭竹神社と称していたが、後世、転訛して藤武と称するようになった。

往古、中丸近郷を城山と称していた頃、建御名方命を勧請した。
一説には、鳥久保に古宮と称する場所があり、その地から祭神を遷し祀ったとも伝えられている。

『甲斐国社記寺記』には、祭神は事代主命と記され、光孝天皇仁和元年(885)閏三月二十七日に從五位下を授けられたとあり、当社は、六国史の『三代実録』記載の藤武神で国史現在社であり、式外の古社であるという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:20 PM