雄山神社中宮祈願殿 追記

雄山神社中宮祈願殿近くにあった姥堂が国史見在社・新川神であるという説があり、
雄山神社中宮祈願殿に姥堂趾の写真と文章を追加した。


中宮祈願殿の周囲には多くの寺堂が立ち並んでいたが、明治期の廃仏毀釈によって、多くは破壊された。

中宮祈願殿から東へ少し進んで南へ下りた場所に立山博物館展示館などがあり、遥望館という建物の前に四角形の舞台のようなものがある。これが「姥堂基壇」で、姥堂の趾。

基壇の前に石の手水鉢が置かれており、姥堂御寶前と刻まれている。

立山は神仏分離まで女人禁制で、禁をおかして山に登った女性は岩石や樹木に化せられたといい、美女平の美女杉などはその変わり果てた姿だという。
姥堂は女人堂で、ここまでは女性の参拝も許された。

ここに祀られた姥尊は万物の母神で、死後は冥界の主催神となったといい、伊邪那美命のような神。

この姥尊を、男神である立山神に対して、女神である新川の神とする説があり、『三代実録』に貞観九年二月二十七日に神階を受けた国史見在社である新川神社として復古することを願い出たが認められなかったらしい。

女偏に田を三つ書くこの姥堂の文字は、田畑を感がいする水源の女神であるとも、田は母を意味し、万物の母たる三女神であるとも。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 11:50 PM

箭代神社 (氷見市)

富山県にある、箭代神社(氷見市) を掲載しました。

富山県氷見市にある。
氷見線・氷見駅の北5.5Kmほどの北八代に鎮座。
160号線を北上し、阿尾あたりで北へ入り、
阿尾川を渡って2~300mほどの場所に参道入口があり
道路から西へ入ると、社号標と鳥居が立っている。

鳥居をくぐり参道を進み、赤い欄干の橋を渡ると社域の森。
参道を進み、左手へ進むと社務所。右手に手水舎と神輿庫。
参道を直進すると当社の社殿。

拝殿は瓦葺の切妻造・平入り。
拝殿の後方には瓦葺・流造の本殿。
本殿の左手には神饌所がある。

本殿の後方から北を眺めると、小さな丘がある。
中山と呼ばれるこの丘の上に当社の古社地が”あった”。

『式内社調査報告』には古社地に、
鳥居と社殿(感之社)が残っていると記されていたので行ってみた。
中山の西側に山へ入る道があったので、そこから山道を上り
それらしきものを探しながら歩いていると、
いつのまにか中山の東側へ抜けてしまった。

古社地は諦めて、車を止めていた西側へ戻るため、
中山の南側の道を戻っていると、
新しい立派な石組の上に、新しい祠が祀られていた。
祠の扁額を確認すると「感之社」とあり
周囲には慰霊碑などの石碑が立っていた。

箭代神社に参拝後、古社地の件をお聞きした。
古社地の中山に、能越自動車道が通ったため
中山の社地は買い取られ、古社地には何も残されておらず、
感之社を中山の南麓に再建したらしい。

ということで、感之社は本来の位置より下になってしまったが
感之社から、現社地の森を眺めていると、
巣立って立派に成長した子の背を見ているような感覚を覚えた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:25 PM

青澤神社 (糸魚川市)

新潟県にある、青澤神社(糸魚川市) を掲載しました。

新潟県糸魚川市にある。
青海駅の南2Kmほどの青海大沢に鎮座。
北陸自動車道の高架をくぐり、工場の東側道路を南下。
工場の南端、大沢地区に入って、東へ入ると境内がある。

道に面して鳥居が立っているが、
これは境内横手からの入口。表参道は南西側にある。

思い立って長野から新潟県に向かい、
北陸自動車道を西へ進んだが、
当日は土砂崩れのため、能生と糸魚川の間が通行止め。
仕方がないので、能生で高速を降りて
糸魚川付近で休憩し、朝を迎えた。

せっかくなので、青海神社へ久しぶりに参拝をしようと思ったが
夜明け前で真っ暗だったので、さらに南の当社へ。
車の中で少し眠って、明るくなってから参拝。

鳥居をくぐり、参道を進むと広い境内。
木々に囲まれた早朝の神域は瑞々しくて良い雰囲気。

境内奥に、寄棟に近い入母屋造の拝殿があり、
少し離れて、後方に神明造の美しい本殿がある。

当社の社号「青澤」は、
『平成祭データ』には「あおさわ」と記されているが、
鎮座地の字は大沢。青海は「おうみ」と読むので、
青澤も「おうさわ」と読むのが正しいんじゃないだろうか。
などと考えながら参拝した。

当社の由緒などは未確認。

『式内社調査報告』に、越後國頸城郡の式内社・青海神社は
創建時には、大沢の寺平(テラデラ)という地にあったと記され、
当社・青澤神社が、その地に鎮座しているとある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:56 PM

青海神社 追記 (青海)

10年ぶりに新潟県糸魚川市にある 青海神社(青海)に行って来たので、写真を差し替え。
せっかくなので、古社地にも訪問して来た。




A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:15 PM

頤氣神社 (小島田町)

長野県にある、頤氣神社(小島田町) を掲載しました。

長野県長野市にある。
長野駅の南、直線で4Kmほどの小島田町に鎮座。
犀川を渡って南下し、18号線(篠ノ井バイパス)の
「いき」交差点から少し千曲川方向に入った場所。
千曲川の堤防道路の脇に境内がある。
大正以前は、この堤防も社地の一部だったようだ。

境内入口は南側。入口の前に三基の立石があり、
「庚申」「二十三夜」「道祖神」と刻まれている。
入口右手には、「式内頤氣神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、参道の右手に公民館、左手は社務所だろうか。
境内は縦に長く、北側奥に社殿がある。

木々は少しまだらな印象だが淋しい感じではない。
でも、昔はもっと鬱蒼として昼なお暗い境内だったのでは、
などと想像しながらの参拝。
天気が良すぎて日射しが強い秋の午後。

拝殿は瓦葺で切妻造・平入り形式。
屋根には瓦の鯱が乗っている。
拝殿の後方の本殿は、瓦葺の覆屋の中にあるようで確認できず。
資料によると小ぶりだけど、総欅造りの重垂木杮葺。
立川流の組物彫刻を施された華麗なものらしい。残念。

創祀年代は不詳。
更級郡池郷鎮座の式内社・頤氣神社の論社の一つ。

祭神は荒田別命。通称を頤氣神というらしい。
崇神天皇の御子・豊城入彦命の四世孫にあたる人物。

伝承によると、大化三年(647)、
蝦夷地への前進基地として越後渟足柵磐舟柵を設けた頃、
千曲川沿いの川中島平池郷を開拓し、人々の産業を助けた神。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:20 PM

花井神社 (長野市)

長野県にある、花井神社(長野市) を掲載しました。

長野県長野市にある。
信越本線・篠ノ井駅の北西4Kmほどの篠ノ井小松原に鎮座。
383号線を3Kmほど北上し、中尾山温泉を目指して西へ入る。

狭い坂道を進み、温泉を通過すると、
道の脇に東向きの境内がある。

境内入口には赤い鳥居が立っており、
やや、雑草の茂った境内に社殿。
境内右手に社号標があり「花井神社」と刻まれている。
境内左手にも社殿があるが境内社だろうか。

境内は山の上にあり、川中島平を見下ろす位置にあるのだが
木々が茂っていたためか、眺望の記憶がない。

「郷土を救った人びと―義人を祀る神社―」という書籍を見て参拝。
昭和五十六年発行のこの書籍に載っている写真とは社殿が違っており
境内の狛犬や社号標も新しい。
今でも有志の方々によって大事に維持されている神社なのだろう。

社号標には「全国土地改良事業団体連合会」とも刻まれていたが
当社祭神の功績と関連がありそうだ。

昭和四十四年(1969)十一月の創建。
社格廃止後の創建なので、社格は無い。

花井遠江守吉成とその子・花井主水正義雄を祀る神社。

戦国時代が末期の慶長年間、
松代藩城代であった花井遠江守吉成は領内を巡察し、
戦乱によって荒廃し、犀川の乱流に苦しんでいた領民のため
大規模な土木工事を決意した。

鬼無里戸隠を源流とする裾花川が、
現在の長野市の東に横断乱流していたものを、
中郷所九反から犀川の新流を開き、
市の東南方に数千町の肥沃な水田を開発。

さらに川中島三堰を改修して川中島一帯を良好な水田とし、
さらに更級郡の南端村上・力石・上山田地域の
「六ケ郷用水」を改築して千曲川水系の灌漑を計った。

また北国街道の改修・新道の開削、駅通の新設など
數多くの公共事業を推進し、慶長十八年(1613)に没した。

花井遠江守吉成の子・花井主水正義雄も父の遺業を継ぎ
川中島平一帯の開発・振興に力を注いだが、
元和二年(1616)主君の改易・流罪に伴い、松代を去った。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:03 AM