山水元神社 (木島平村)
長野県にある、山水元神社(木島平村) を掲載しました。
長野県の木島平村にある。
飯山線飯山駅の南東7Kmほどの上木島に鎮座。
403号線に入って東へ進み、千曲川を渡ってさらに東へ5Kmほど。
403号線上に木島平スキー場の案内があるので、案内に従って右(南)へ登って行くと境内がある。
境内入口は道路に面して北向き。
鬱蒼と茂る社叢の前に赤い両部鳥居が立っており、扁額に「山水元神社」と書かれている。
鳥居をくぐりまっすぐな参道を進むと当社の社殿。
妻入の拝殿の後方に本殿覆屋が連結した構造で、本殿の様式は確認できなかった。
拝殿の周囲、下部に葦簀が設置されていた。
雪除けのためだろうか、なかなか雰囲気が良い。
ブルーや緑のビニールシートを使用するよりは手間ではあるのだろうが、外部からの参拝者の眼にはとても心地良い。
当社の通称は「お妙義さん」。
合祀されている長坂織部正重清命は、寛永十一年(1634)上木島大町安国神社祠官長の家に生れた人物。
信州木島平は当時は深刻な水不足に悩まされ、農民は困窮していた。
長坂織部正重清は、単身水源地である木島奥山に入って調査し、渓流を木島平村に導くことに成功した。
ところが同じく水不足に悩んでいた隣村の夜間瀬村はこの水源に着目し密かにこれを引き込むことを計画。木島平村との間に抗争が生じ、水源地所属の境界を巡って訴訟が提起され、 努力もむなしくついに木島平十八ヶ村が敗訴してしまった。
そこで長坂織部正重清は江戸公儀の採決を仰ぐべく、六十歳の老躯をもって深山に籠り証拠となる大石巨木を調査して水源地境界を究明。
この間夜間瀬村民の襲撃を受けながらも、元禄九年(1696)三月、禰津惣右ェ門、高木善左ェ門の両名主を帯同して江戸へ出立。
途中、妙義山に山籠して七日間水行断食し、分霊を江戸に捧持して朝夕祈念した。
元禄十一年五月、公儀の裁断により木島平十八ヶ村の勝訴となり水源は確保された。
当社、山水元神社は、長坂織部正重清が朝夕祈念した妙義山の分霊神を祀ったもの。
ただし、この訴訟や調査に私財を投じたため、また報復の災火によって家財を焼失。
長坂織部正重清の生活は困窮し、八十一歳で没してしまった。
慶応二年(1866)、長坂織部正重清の偉業を称え、山水元神社に合祀された。