仲神社 (明和町)

三重県の仲神社(明和町) を掲載しました。

三重県の明和町にある。
近鉄山田線の明星駅の西1Kmほどの上野に鎮座。
明和病院の東側に社域の杜があり、南側に白い鳥居が立っている。
鳥居の脇に「式内仲神社」と刻まれた社号標があるが、側面には裏参道をある。
南側の鳥居は裏参道の鳥居で、表参道は東側にあるようだ。

ということで、東側に回って表参道から参拝。
表参道の鳥居は裏参道のものよりやや古い石鳥居。
鳥居の左手に手水舎があり、鳥居の脇には裏参道同様の社号標。

鳥居をくぐり参道を進み裏参道と合流して右手に社殿。
結局、裏参道から直進(北上)すると社殿の正面に出ることになる。
よって、社殿は南向き。
拝殿の前にも鳥居が立ち、拝殿の奥、垣に囲まれて神明造の本殿がある。

参拝は三月の晴天の日の午後。
日差しが強すぎて、社叢の影で写真としては失敗した感じだ。

裏参道の鳥居の脇に山神と刻まれたいくつかの石がまとめて祀られていた。
その左端には、平成十五年六月境内に遷座された西池の水神を祀った石も。
ただし、西池がどこにあるのかは確認していない。

『三重県神社誌』および『平成祭データ』には、当社に関する由緒などの記載はない。

当社の社名から、仲臣氏が祖神である八井耳命を祀ったとされ、『式内社調査報告』によると式内社・仲神社の論社。
鎌倉時代の徳治・正和の頃、東福寺の僧佛通禅師が仲畑の地に長松山安養寺を建立、天正年間の織田氏の戦火により寺社共に焼失し現在地に遷座したとある。

安養寺は現在当社の北200mほどの場所にあるが、当社は元は現在地の南西方200mの地にあったとされ、『伊勢式内神社検録』には「上野村南西二丁ヲ去レル松林ノ中ニ古宮ト稱スル處アリ、東西十間ニ南北廿間許無高ノ地ナリトソ。其處ニ在ケル社ヲ東三丁許去ル地ヘ移セリト云フ」とあるらしい。

明治二年三月、神社改めの際に勅使北小路右京権太夫が参拝奉幣し村社となったが、明治四十一年六月三十日、桜神社(現宇爾櫻神社)に合祀され、昭和二十年、古社地である現在地に分祀された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:24 PM

栴谷神社 (砺波市)

富山県にある、栴谷神社(砺波市) を掲載しました。

富山県砺波市にある。
砺波駅の南東9Kmほどの井栗谷に鎮座。
17号線から25号線に入り、雄神大橋を渡って庄川を越え、井栗谷トンネルを抜けたところ、25号線の東側に境内がある。

境内入口は南西向き。
鳥居をくぐり境内に入ると左手に手水舎。
右手に社号標と万葉歌碑がある。当社は万葉集に「いもが家に いくりの杜の藤の花 今こむ春も 常かくし見む」と歌われた伊久里の杜。
ただし、伊久里の杜の万葉和歌については越中説の他に、大和説、越後説などがあり定かではないらしい。

参道を進むと参道右手に綽如杉(しゃくにゅすぎ)。
明徳元年(1390)井波町瑞泉寺を開いた綽如上人の手植えの杉と伝えられている。

参道正面には瓦葺流造の拝殿があり、拝殿の扁額には「八幡宮 神明宮」とある。
本殿は拝殿の後方の覆屋の中。参拝した時には前面の扉が開けられていた。

『富山県神社誌』によると、明治四十二年、神明宮と八幡宮を合祀して栴谷神社と改称した神社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:56 PM

服部伊刀麻神社旧地 (松阪市)

三重県の服部伊刀麻神社旧地(松阪市) を掲載しました。

三重県松阪市にある。
松阪駅の北東8Kmほどの出間町に鎮座(していた)。
松阪駅から北上し、23号線に入って東へ。
櫛田川を渡ってから2Kmほどで北へ入った場所。

出間町集落の東端に生垣に囲まれた四角形の区画がある。
その区画の中に「式内服部伊刀麻神社舊地」と刻まれた石碑が立っており、その傍らに山神が祀られている。

ここは、式内社・服部伊刀麻神社に比定されていた神社の古社地。
鎮座地名の出間(いづま)は伊刀麻(いとま)から変化したものと考えられており、服部伊刀麻とは「服部地区の伊刀麻集落に鎮座する」という意味らしい。

服部伊刀麻神社の創祀年代や由緒に関しては不詳。
宝徳三年(1451)正月の「はたとのの御神事之日記」に「いつま社」とある古社。

布カケ社とも俗称された出間町の産神で、元は出間町の北東(現在地の北側)に、田カナド明神として祀られていたという。

明治四十一年四月七日、許可を得て柿木原の宇氣比神社(二十五柱神社)に合祀された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:44 PM