有礒正八幡宮 (高岡市)

富山県にある、有礒正八幡宮(高岡市) を掲載しました。

富山県高岡市にある。
高岡駅の北東1.5Kmほどの横田町に鎮座。
千保川にかかる横田橋を渡るとすぐ、交差点に面して境内入口がある。
境内は、高山右近の意によって奉納された築城様式の石垣に囲まれている。

境内入口は南向き。入口に木製の鳥居が立ち、綺麗に刈り込まれた植木を眺めながら進むと、左右にリアルな随神像。
やや伏し目がちな右大臣、左大臣に挨拶して境内に入るともう一つの鳥居。

鳥居の左手には、高岡市指定文化財の神輿が納められた神輿庫。
左手には手水舎「行啓 御用水」。大正天皇が皇太子時代、高岡行啓のおりに、この水が献上されたらしい。

さらに参道を進むと美しい社殿。
幾重にも屋根を重ねた、いわゆる「八棟造」だが、当社では日本海の荒波を模した「有礒造」と呼んでいるらしい。

綺麗に維持管理された境内には、親子抱き合いの欅や御神木の欅、磐座などが点在し、とにかく美しい。四季折々に違った風景が堪能できそうな、そんな神社。

当社は、有礒神と綏靖天皇を祀る『有礒宮』と応神天皇外三柱を祀る『横田正八幡宮』の二社が合祀された神社。

有礒宮は大和より移住してきた有礒の民(綏靖天皇を奉斎する人々)が、渋谷の浜(現在の高岡市雨晴岩崎の沖合い)に勧請奉斎したと伝えられ、「有礒の海」の守護神として有礒七浦(氷見七浦)の宗社と崇敬された古社。

その後、日本海の荒海による浸蝕が激しく、渋谷の山中(現在の燈台付近)に遷された後、高岡の志貴野の山「山崎の丘」(現在の古城公園、小竹藪付近)に遷座。

さらに、前田利長による高岡築城に際し、慶長九年(1604)、塩蔵下に仮遷座後、慶長十五年(1610)に川原町地内の横田正八幡宮に合祀され、『有礒神社正八幡宮』と改称された。

横田正八幡宮の創祀年代は不詳だが、文明年間(十五世紀後半)に上田丹後守が礪波山より勧請したとも伝えられ、当時は宗泉寺の住職によって奉祀されていたという。
有礒宮との合祀の後、千保川(横田川)氾濫のため、慶長十七年(1612)上田伊勢守の屋敷地内(現在地)に遷座された。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:05 PM

船形神社 (高根町長澤)

山梨県にある、船形神社(高根町長澤) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央本線長坂駅の北東9Kmほどの高根町長澤に鎮座。
141号線(清里ライン)の長沢交差点から西へ700mほどにある丘が境内。

境内入口は道路に面して南向き。
入口に鳥居は見当たらず、参道階段を上ると「郷社舩形神社」と刻まれた社号標が立っている。
さらに参道を進むと鳥居があり、さらに進むと神門。その奥に社殿のある境内がある。

境内の右手に神楽殿、左手に社務所などがあり、正面に拝殿。
拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿は白い覆屋の中で確認できなかった。

参拝は四月の後半。桜の花は散り始めている時期だが、境内にはまだ少し咲いていた。
終わりゆく春の天気の良い昼下がり。

創祀年代は不詳。一説に、日本武尊御東征のみぎり、酒折の宮より科野国の国坂の神に事向け給う時、この地に奉幣した伝えられる古社。

長沢東井出集落の氏神として崇敬され、もとは諏訪明神と呼ばれていたが社地が船山といって、船形神社と称するようになったといい、仁壽元年(851)甲斐守小野貞守の祈願により社頭を造営。
『三代実録』元慶八年(884)十二月十六日に、「甲斐国正六位上船形神従五位下」とある国史見在社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:13 PM

神部神社 (南アルプス市寺部)

山梨県にある、神部神社(南アルプス市寺部) を掲載しました。

山梨県南アルプス市(旧若草町)にある。
甲府駅からなんせいに12Kmほどの寺部に鎮座。
中部横断道の南アルプスI.C.の入口から南東へ100mほどの道路がゆるくカーブしている場所に南向きの境内がある。

鳥居の右手には「神部神社」と刻まれた社号標。
『平成祭データ』には「神部社」とあるので、神部社が正式なのかもしれないが、鳥居の扁額には「神部神社」「八幡神社」と二つの社号が併記されている。

鳥居をくぐると参道途中にもう一つの鳥居。
その鳥居の奥に神門があり、さらに参道を進むと当社の社殿がある。

参拝は四月の中旬。境内は芽吹いた緑で青々としていた。
拝殿は瓦葺入母屋造。後方の本殿は銅板葺流造。
社殿の周囲には多くの石祠が祀られているが詳細は未確認。

社頭に当社の由緒書きを記した案内板があり、そこに当社の神紋は「松皮菱」と書かれているのだが、本殿の屋根にある紋は「三階菱」。
ともに三つの菱型が上下に重なった、良く似た図案だが、どちらが正しいのか、あるいはどちらでも良いのか、あるいは三階菱を松皮菱と呼んでいるだけなのか。これも未確認。

創祀年代は不詳。
一説には上代、当地に鏡作部が置かれた時、その遠祖を祀ったものと考えられている古社。
大井荘内七ヶ村の惣鎮守で、寺部・加賀美地区の産土神として崇敬された神社。

社頭の案内板や『甲斐国社記・寺記』には「延喜式内 神部神社」とあり、当社は式内社・神部神社の論社であるようだ。

ただし『式内社調査報告』には当社の記述はなく、『山梨県神社誌』にも式内の記載は無いので、有力な論社ではないのかもしれない。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:52 PM