水神社 (小海町)

長野県にある、水神社(小海町) を掲載しました。

昭和五十六年(1981)発行の『郷土を救った人々―義人を祀る神社―』に、小海町の二つの石祠の記述がある。

一つ目は宝永創建、山口弥兵衞命を祀る弥兵衛明神社。
山口弥兵衞は江戸・三谷町の人で、宝永年間(1704~10)、
小海町に来て、千曲川より3カ所水を取り入れ、箕輪、芦谷、土村、宿渡、中村、本村の地域に十八町歩の田を開墾し、おかげで小海町の人々は、はじめて米を手に入れることが出来たという。
また、一説には、山口弥兵衞は金融業で、開発が困難を極め、予想外の出費に苦しみ、人足費の不払いのために殺され、村人がその霊を祀ったという。

『郷土を救った人々』によると、弥兵衛明神社に関して、「小海駅より千曲川左岸を二キロほど遡った箕輪部落の急峻な山中に石の祠が深い草の中に鎮まってゐた。」「石祠の前には、弥兵衛大人が測量のときに腰かけたと伝えられる樹齢三~四百年はあろうかと思はれる三本の老松があり、その真下には千曲川の流れが美しい」とある。

残念ながら、箕輪集落は千曲川の右岸にあり、また、千曲川そばには急峻な山中という場所が見当たらない。

二つ目は享保創建、山口弥兵衞のあとをついで開発に尽力した城土丈右衛門命を祀る水神社。
城土丈右衛門は小県郡長窪古の人で、弥兵衞ののちに箕輪に十町歩の新田を開発。
しかし、事業が未完成のまま享保十一年(1727)に死亡。
当時の名主新津與惣治が土村組を指揮して完成させたという。

『郷土を救った人々』によると、水神社に関しては、「弥兵衛明神から更に山奥に進んだところ」としか記されていない。

上記の弥兵衛明神社と水神社に関して、平成七年(1995)神社庁発行の『平成祭データ』には水神社の名前しか載っておらず、祭神は山口弥兵衞命となっており、二祠が一つになっているような雰囲気。
『郷土を救った人々』発行からは30年以上経過しているので、当時のままではないのかもしれない。

ということで、この二つの石祠を探しに箕輪へ行ってみた。が、結果としては、判らなかった。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:48 PM

藤武神社 (北杜市)

山梨県にある、藤武神社(北杜市) を掲載しました。

山梨県北杜市にある。
中央本線長坂駅の南西、直線で1Kmほどの長坂町中丸に鎮座。
606号線だと2Kmほどの距離にあり、606号線から少し北へ入った場所。

境内入口は南向き。
参拝は四月の後半、鳥居の脇にはまだ桜が咲いていた。
鳥居をくぐると、鬱蒼と樹木の茂った境内。
参道を北上すると、右手に神楽殿、左手に社務所があり、正面に社殿。
拝殿は入母屋造平入りで、後方の本殿は覆屋の中。

社殿の左手から後方に、境内社の石祠が並んでいるが詳細は未確認。

参道の途中、左右に丸いモノが置かれていた、というより埋まっていた。
鳥居の脚部だけ、という感じだが、なんだろう。
昔は鳥居が立っていたんだろうか。

社伝によると、景行天皇四十年、日本武尊東征の時、この地に至りて、軍旅に携えていた竹の鞭(むち)を埋めて一社を創建したという。
ゆえに、鞭竹神社と称していたが、後世、転訛して藤武と称するようになった。

往古、中丸近郷を城山と称していた頃、建御名方命を勧請した。
一説には、鳥久保に古宮と称する場所があり、その地から祭神を遷し祀ったとも伝えられている。

『甲斐国社記寺記』には、祭神は事代主命と記され、光孝天皇仁和元年(885)閏三月二十七日に從五位下を授けられたとあり、当社は、六国史の『三代実録』記載の藤武神で国史現在社であり、式外の古社であるという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:20 PM