中川熊野神社 (高岡市)

富山県にある、中川熊野神社(高岡市) を掲載しました。

富山県高岡市にある。越中中川駅の南西400mほど、
前田利長が築いた高岡城の城跡である高岡古城公園の南東の中川本町に鎮座。

境内入口は南東向き。
鳥居をくぐると右手に手水舎があり、参道正面に拝殿。
当社の社殿は、2009年9月、火災により焼失し、拝殿は全焼、本殿は半焼。
その後、現在のように修復が完了したらしく、どっしりとした入母屋造の拝殿は、
まだまだ新しい木の色をしていた。

『富山県神社誌』などによると、当社の正式名は「熊野社」。
ただし鳥居や本殿の提灯には「中川熊野神社」。本殿扁額には「熊野神社」とある。
周囲にも熊野社があり、その区別のために鎮座地の中川を冠して通称されているのだろう。

社伝によると、応神天皇の御宇、神託をえて月輪宮として創建された古社。
ついで、宝亀元年(770)八月、国分寺の僧・本覚が当社を中興し、
さらに、熊野権現を当地に奉斎したという。

『富山県神社誌』によると、式内社・加久彌神社を合祀しているとも伝えられているらしい。

また、元慶年中(877~885)、菅原道真公が当社に参詣し、御自筆の勤音経一巻を奉納。
永禄四年(1561)、神保安芸守が社殿を再建。社領百二十石を寄進し篤く尊信。

天正四年(1576)、兵火にかかり社殿宝物等を焼失。
その時、宝田本学(宮司宝田家の祖)が御神体を奉持し現在地に奉遷。

慶長年中(1596~1615)、高岡城主前田利長公奉幣祈願し、当社を深く崇敬。
中川村の産土神として現在に至る。

当社の北東700mほど、高岡高校グラウンドのバックネット裏に、俗に「ボンボン山」と呼ばれる塚があり、定塚と称されている。

当地に住む社僧・宝田利長(宮司の祖)が、永正六年(1509)にこの塚に入定、生きたまま穴の中に入って即身仏となる時に、100年後にはこの地を治める聖者として現れると予言。
ちょうど100年後の慶長十四年(1609)前田利長が高岡城主となったという伝承がある。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:39 PM

松井神社 (伊勢市)

三重県の松井神社(伊勢市) を掲載しました。

三重県伊勢市にある。
参宮線・山田上口駅の南西1.5Kmほどの中島に鎮座。
度会橋西詰から500mほど南、宮川の右岸にある宮川堤の南端に境内がある。

境内入口は南東向き。
22号線の脇道に面して大きな鳥居が立っている。
鳥居をくぐり参道を進み、橋を渡ると、土手のような細長い境内。
境内に右手に手水舎があり、その隣りに「松井孫右衛門人柱堤」と刻まれた石碑。
石碑の横に玉垣で囲まれた小さな祠がある。

祠の中には、祭神・松井孫右衛門命の石像が、
宮川の流れを眺めているように納まっている。

『郷土を救った人々-義人を祀る神社』によると、
当社の創建は大正四年。

伊勢への参宮のため必ず渡らなければならなかった宮川だが、
かつて宮川は大雨が降るたびに洪水となり、堤防が決壊して山田の家屋や田畑が流出し、
多数の死者が出る川だった。

寛永元年(1624)徳川将軍秀忠は、大々的に宮川の堤防を補修させたが、
自然の猛威に勝てず決壊し、その都度改修工事が行われていた。

寛永十年(1633)、大雨のたびに洪水となる惨状をみて、
人柱でも入れない限り堤防は完全にならないだろうという人の話を聞いた山田の松井孫右衛門は、自らすすんで人柱になることを決意。身を清め、神仏に祈って、仏具の鐘を携えて入棺。
棺内より堤上まで竹筒を通し、食物などを入れて、代わる代わる通夜をしたが、
はじめのうちは、竹の筒から鍾の音が聞こえていたが、次第に弱くなり、
三日目にはついに聞こえなくなった。

寛永十年八月二十五日、人々はそこに供養の石像を安置した。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:00 PM

竹神社 (明和町斎宮)

三重県の竹神社(明和町斎宮) を掲載しました。

三重県の明和町にある。
斎宮駅の東300mほどの字牛葉に鎮座。
428号線(斎宮街道)に面して南向きに鳥居が立っており、
鳥居の右手に「延喜式内竹神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐると左手に社務所、右手に手水舎。
手水舎のそばには「八王子」と刻まれた石灯籠。
もとは、池村氏神の一つ饗庭の森八王子の石灯籠で
嘉永七年遷宮記念に氏子が作成したものだが、昭和三十七年池村より移転した。
また、その礎石は丹生上田野の常明寺の礎石だったらしい。

石灯籠の北側に鳥居が立っており、鳥居の奥が社殿の鎮座する杜。
参道を進むと、右手に神宮遥拝所、左手の奥には社日。
さらに進むと、左手に東向きの社殿。
社殿の前にも鳥居が立っており、参道を挟んで向かいに石の台。蕃塀だろうか。

拝殿内には祭神の名が列記されており、
その奥に瑞垣に囲まれた神明造の美しい本殿がある。

本殿のある瑞垣の左手に四角く整地された敷地がある。
参拝時には、神宮のように式年遷宮が行われ、隣りへ建て替えられるのだろうか、
などと思ったが、『式内社調査報告』によると祓所らしい。

当社は、明治四十四年、周辺の神社と合祀・移転されたもの。
現社地には、もとは宇志葉神社(野々宮神社)が鎮座していたらしいが、
さらに昔は斎宮城の跡。
室町時代斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き勝手に徳政を敷き
狼藉を働いたので、国司北畠材親(きちか)に討伐されたと案内板にあった。

創祀年代は不詳。
社伝によると、垂仁天皇の御宇、
竹連(タケノムラジ)の祖・宇加之日子の子であ吉志比古が、
皇太神を奉じて伊勢御巡幸の倭姫命に供奉して此の地に留まった。
孝徳天皇の御代にいたって、多気郡が創設されるや、
その子孫が郡領に補任され、当地に定住して祖神である長白羽神を奉斎したのが当社の初め。
式内社・竹神社に比定されている古社である。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:55 PM

諏訪神社 (佐久市横根)

長野県にある、諏訪神社(佐久市横根) を掲載しました。

長野県佐久市にある。
佐久平駅の北東4.5Kmほどの横根に鎮座。
156線を東へ進み、上越道を通過して1Kmほどで西へ入る。
156号線と湯川の中間あたりに境内がある。

境内入口は道路に面して西向き。
数段の階段を上ると「郷社諏訪神社」と刻まれた社号標と鳥居。
鳥居をくぐり少し進むと、参道は左手に折れ、そこにも鳥居。
そこから参道を北上すると、参道右手に横根児童遊園。正面に社殿がある。

社殿の前にも鳥居が立っており、奥に切妻造の拝殿。
拝殿の後方の本殿は覆屋根の下にあり、横から見ると流造だとわかる。

鬱蒼というほどではないが、参道には太い木々が立ち、
木々や参道、石碑などはほどよく苔生した静かな神社。

そのため参道脇にいくつか立っている石碑はよく読めなかった。

創祀年代は不詳。
口碑によると後鳥羽天皇文治元年(1185)の創祀。
一説には建久年中(1190-1199)の創祀であるとも。

当時、十二大明神と称され、小柴の仮屋に奉斎されていたが、
後、守護職小笠原長清の一子・横根法眼という者がこの地に来て、
当社の霊験に感じ、祭祀の中絶を憂いて、建久年中に石祠に改造し拝殿を建立したという。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:10 PM

宇田明神跡 (明和町)

三重県の宇田明神跡(明和町) を掲載しました。

三重県の明和町にある。
近鉄山田線・斎宮駅の南600mほどの水田地帯に、
一箇所だけ木々の茂った塚のようなものがあり、
老杉の根元に「齋宮旧蹟宇田神社」と刻まれた石碑が立っている。

宇田神社、宇田明神と呼ばれていた神社の跡だが、
当社の創祀年代は不詳。

案内板によると、祭神は大海田水代大刀自。
式内社・大海田水代大刀自神社の論社となっている古社であったが、
現在は、牛葉の秋葉神社に合祀されている。

延喜式では「大海田水代大刀自神社」だが、写本によっては天海田水代大刀自とも記され、
その読みも「オヲアマノ…」「アマノ…」「アマノタミツ…」「ヲホウナタミシロ…」
「ウナタミシロオホトジノ」「オホウダミヅシロオホタウメノ」「ヲホウナタミシロヲホトシ」
など諸説あってわからないが、この社名の海田が宇田と変化したということだろうか。

式内社であり、斎宮縁の神社として、明治二年勅使が奉幣するはずだったが、
社殿が無いので取りやめになったらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 1:36 PM

中屋神社 (白川町)

岐阜県の中屋神社(白川町) を掲載しました。

岐阜県加茂郡白川町にある。
高山本線の白川口駅から北東へ9Kmほどの中川に鎮座。
飛騨川の支流・白川沿いに走る白川街道(62号線)を進むと、
道路の北側に、参道入口があり「中屋神社」と刻まれた社号標が立っている。

車は通れない狭い参道を北へ進むと、正面、丘の中腹に鳥居が見えてくる。
階段を上り神明鳥居をくぐって、さらに階段を上ると中屋集会所がある。
鎮座地の住所は中川だが、地図を見ると当社周辺は中屋と記されている。
小字が中屋ということだろうか。

その中屋集会所の右手に参道階段が上へと続き、階段を上ると当社の社殿。
集会所が参籠所や社務所を兼ねているようだ。
社殿は丘の斜面に建てられており、比較的新しい拝殿の後方に流造の本殿が鎮座している。

山間部や地方の神社の多くは、当社のように丘の斜面に神社が鎮まって、
神様が集落や田畑を見下ろしているようだ。

創祀年代は不詳。当社に関する詳細な由緒も未確認なのだ。

岐阜県神社庁のサイトを眺めていた時に、
「美濃國神名帳に中屋神社とある本社なり」という一文を見て参拝してみた。

僕が持っている『国内神名帳の研究 資料編』(三橋健著)には中屋という神社は載っておらず、
賀茂郡に「正五位上 中都家明神」という神社がある。
この本は不破家所蔵本を底本にしており、写本によって異同や文字の異なるものもあるのだろう。
ということで、当社は「美濃國神名帳」に記載されている古社なのだと思う。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 4:55 PM