倉賀野神社 (高崎市)

群馬県の倉賀野神社(高崎市)を掲載しました。

群馬県高崎市にある。
倉賀野駅の南西500m。道程で1Km弱の倉賀野町に鎮座。
中学校の北側に、道路に面して東向きに境内がある。

境内入口には金属製の鳥居が立ち、鳥居の左右に社号標。
右の社号標には「倉賀野神社」、
左の社号標には「総鎮守圀䰟」とある。「圀䰟」は「国魂」の別字。

鳥居をくぐると、右手に公民館。
参道の左手に手水舎があり、さらに進むと小さな神饌田がある。

拝殿は瓦葺入母屋造向拜付き。後方の本殿は銅板葺流造。
現在の本殿は幕末のものらしい。
拝殿には扁額が二枚あり、「倉賀野神社」「飯玉大明神」と並んでいる。
当社の通称は飯玉さま(いいだまさま)なのだ。

参拝は晩秋十一月の早朝。
陽が昇り始めた頃で、東向きの社殿は朝日を浴びてオレンジ色。
砂利の境内の奥は枯葉が積もって良い雰囲気で、
とにかく綺麗な神社境内だった。

拝殿内に天明七年の狩野探雲作・厄除 雲龍図があるらしいが、
拝殿の扉は閉まっていて良くわからなかった。

社伝によると、第十代崇神天皇の四十八年九月十九日、
皇子豊城入彦命が、陣中すなわち今の境内にて斎場を設け、
松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀したのが当社の起源。

上野国神名帳に「正五位上 大国玉明神」とある古社。
当社には「飯玉縁起」という書が伝わっており、
以下のような伝説がある。

第四十九代光仁天皇の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は優秀であったため、兄たちの恨みを買い、
夜討の末に、鳥啄池の岩屋に押しこめられた。

三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇とって兄たちへの復讐を遂げるが、
その後も人々を害するようになり、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。

 小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六才の娘海津姫をの別れを嘆き悲しんでいる時、
都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入 った。
宗光は、暴れる大蛇に対し、一心に観世音菩薩の名を唱え、琴を弾いた。
すると、大蛇は黄色の涙を流し て悔い改め、神明となって衆生を利益せん、
「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 12:33 PM

印岐志呂神社 (草津市)

滋賀県の 印岐志呂神社(草津市) を掲載しました。

滋賀県草津市にある。
草津駅の北、道程で5Kmほどの片岡町に鎮座。
145号線脇が馬場になっているようで、
赤い大鳥居と「縣社印岐志呂神社」と刻まれた社号標が立っている。

境内入口は南向き。注連柱を通り神門をくぐると広く静かな境内。
参拝は、年末二十八日の朝。
境内では迎春準備のためか、氏子の方々が掃除などの作業中だったので
邪魔にならないように参拝。

境内中央に大きな入母屋造の拝殿があり、
拝殿の後方、瑞垣内に本殿などの社殿が並んでいる。
掃除中の氏子の方々と一緒に瑞垣内に入ったので、
いつも中に入れるのかどうかはわからない。

早朝に参拝すると、このように境内の掃除に遭遇する場合がある。
そんな時は、一声かけると、垣内に入れていただいたり、
普段は閉まっている拝殿内にも入れていただけるのがありがたい。
ただ、いろいろと気を遣わせてしまい、作業の邪魔になるので、
なるべくひっそりと目立たないように参拝している。

瑞垣内に幣殿があり、その奥に本殿。
現在の本殿は寛政四年(1792)に再建されたものらしい。

本殿の左右に境内社が四社並んでいる。
掃除の邪魔にならないようにしていたので、記憶があいまいで各社の名前に自信はないが、
本殿の右に二ノ宮(国常立尊、合祀の多賀社:伊册諾命)。
本殿左に三ノ宮(惶根尊)と小さな若宮(伊弉諾命)。
垣の隅に十禅師社(樹下神社:瓊々杵尊)だったと思う。

また境内右手に稻荷神社(稲荷大神)と恵比須社(大国主神、事代主神)。
境内西奥150mの場所に奥御前神社(別雷尊)が祀られている。
以前は虚空蔵堂だったらしい。

創祀年代は不詳。
社伝によると天智天皇の勅願により、大和国より三輪神を分祀し、
敏達天皇十三年栗太郡常盤村に社殿が造営されたという古社で、、
式内社・印岐志呂神社に比定されている大社である。

また、社伝によると、
用明天皇即位二年夏、悠紀(ゆき)地方に定められ印岐志呂と名付けられたとある。
ただ『太平記』などには、伊岐洲、伊岐須、伊幾須などと書かれ、
「イキス」とも称されていたらしい。
鹿島の息栖(いきす)社は「沖洲の津」の意味らしいが、
湖岸に近い当社と何か関連がありそうな気もする。
また、当社の西、琵琶湖側に風神を祀る志那神社が鎮座しており、
風の強い地方の息吹きの神を祀っていることにも関連しそうな気もする。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:52 PM

○○の神々

ちょっとまとめてみた。暫定版。

自然の神々
生活の神々
産業の神々
諸々の神々



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:42 PM

大倭物代主神社 (宍粟市)

兵庫県の 大倭物代主神社(宍粟市) を掲載しました。

兵庫県宍粟市にある。
中国自動車道・山崎I.C.の北西5Kmほどの山崎町下牧谷に鎮座。
揖保川の支流、伊沢川沿いに429号線を進み、
山崎町下牧谷で、少し南へ入った場所に境内がある。

境内入口は南東向き。
参道入口に神門があり、広い駐車場がある。
神門をくぐり参道を進むと境内入口の鳥居。
鳥居をくぐると右手に梵鐘がある。
境内奥に社殿があり、境内右手に手水舎がある。

社殿は石組の上。
中央に当社社殿があり、左右に境内社。
拝殿は神社建築というより普通の民家のような雰囲気で新しい。
『式内社調査報告』に載っている昭和の写真では、
拝殿は割拝殿のように横に広がり、
社殿の脇には、直径1m以上ありそうな立派な御神木が聳え、
社殿の周囲にも鬱蒼と木々が茂っているのだが、
現在の境内は木々が伐採されて、やや寂しい印象。
台風などで木々が倒壊し、境内整備が行われたのだろうか。

ただ、拝殿後方の流造の本殿は、銅板葺で風格があり、
何度かの修築の痕も見られて、歴史を感じさせる。

参拝は、今にも雨が降って来そうな曇天の正月休日の昼頃。
社殿前、階段脇には門松が立っていた。

創祀年代は不詳。

天正年間、長水落城落城に際し兵火にかかって焼失。
天保二年、本殿を造営。
中古以降、師衆(もろす)または諸守神社と称し、
江戸時代、宍粟郡神社記には衆守神社と記されているが、
明治七年郷社に列し、明治十四年、現社号に改称。

当社(師衆社)は式内社・大倭物代主神社に比定されている古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 8:34 PM