神明宮 (藤岡市中栗須)

群馬県の神明宮(藤岡市中栗須)を掲載しました。

群馬県藤岡市にある。
八高線・群馬藤岡駅の北西2Kmほどの中栗須に鎮座。
上越自動車道・藤岡I.C.の南800mほど、
23号線に沿うように南北に長い境内がある。

境内入口は南向き。
入口左手に「郷社神明宮」と刻まれた社号標が立っており
その後ろには「猿田彦大神」と刻まれた石碑。
神明造の鳥居をくぐり参道を進むと左手に公民館。
参道途中にも鳥居があるが扁額には「諏訪大明神」と記されており、
建御名方神が配祀されているようだ。

参道を進むと境内入口にも神明造の鳥居。
鳥居をくぐると広い境内があり、境内の奥(北側)に社殿がある。

参拝は、十月の早朝、日の出前。
当社に到着したのは、そのずっと前で真っ暗だった。
参道脇の駐車スペースに車を止めて、明るくなるまでしばらく待って参拝。
境内の木々は紅葉し、地面には枯れ葉が散っていた。

拝殿は瓦葺入母屋造。拝殿の左手には同じような形式の神楽殿。
拝殿の後方には垣に囲まれて神明造の本殿がある。
拝殿の前に、緑色のネットが張られている。
当初は鳥除けなのかと思ったが、鳥を除けるには不十分。
あるいは、境内で球技などの遊びが行われるための玉除けなのかもしれない。

境内には多くの石祠が祀られているが詳細はわからない。
奥には塚のようなものや立石などもあるが詳細はわからない。

社伝によると、
後鳥羽天皇建久三年、源頼朝が発願し、
佐々木成綱に命じて伊勢神宮を勧請し創建された古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:55 PM

熊野神社 (立山町)

富山県にある、熊野神社(立山町) を掲載しました。

富山県の立山町にある。
立山線・岩峅寺駅の東1Kmほどの栃津にある神宮山山頂に鎮座。
岩峅寺駅から東へ進み、6号線の宮路(東)交差点を通過して
378号線を右折し、小川(栃津川か)に沿って南下すると
378号線の西側に当社の鳥居が見える。

当社は30mほどの神宮山の山頂部にあり、
東側麓の参道には神明造の石鳥居が立っているが、
鳥居の前の旗竿がムチャクチャ長いのが印象的。

鳥居をくぐると目の前に、狭くて急峻な八十段の階段。
下から見上げると一部が崩れているようで、
這い上がるのは、やや危険かもしれない。

里山山頂の神社の場合、このように急峻な参道階段が見られるが、
多くの場合、尾根筋に別のなだらかな参道がある。
当社の場合には、神宮山北側、宮路(東)交差点附近に登り口がある。

ということで北側の登り口から入り、
緩やかな山道を100mほど歩くと当社境内が見えてくる。

拝殿は瓦葺神明造、後の本殿は流造で社殿は東向き。
ということは、西に向かって参拝することになる。

社殿の前から、表参道にあたる先ほどの急な階段を見下ろしてみた。
尾根筋の参道がなければ、この階段を登っていたかもしれないが、
参拝を終えて下る時は、むちゃくちゃ怖かっただろう。

『式内社調査報告』によると、
岩峅寺駅の西、常願寺川右岸にある雄山神社の前立社壇は
元は当地、天林の地にあったという学説があり、
昔は、雄山神社の神輿が当社・熊野社へ神幸したと伝えられているらしい。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:52 PM

六郷神社 (大田区)

東京都にある六郷神社(大田区) を掲載しました。

東京都大田区にある。
京急線・雑色駅と六郷土手駅の中間あたりの東六郷に鎮座。
第一京阪の東側、多摩川の河口部近くに境内がある。

第一京阪に面して鳥居が建っており、
鳥居をくぐって東へ進むと境内の側に出るが、表参道は南側。

鳥居の右脇に「六郷神社」と刻まれた社号標。
鳥居の前には、梶原景時が寄進したと伝えられる太鼓橋。
鳥居の後方に神門があり、神門をくぐると右手に手水舎。
手水舎の手水石は源頼朝の寄進らしいが、撮影しなかった。

参拝は東日本大震災2日前の正午頃。
当社には幼稚園が併設されており、
手水舎の周りには園児の迎えのためか多くの自転車が止められていた。

参道の左右には紅白の梅の花が咲いており、
参道正面には美しく立派な社殿。
この権現造の拝殿は、昭和六十二年(1987)、
御鎮座930年を記念して造営されたもので、
以前の写真を見ると流造のような形式で平入の拝殿だったようだ。
拝殿後方の本殿は三間社流造で享保四年(1719)のものらしい。

参拝当日、境内の右奥で何かの工事をしており、立入禁止になっていたが、
奥に塚のようなものがあり、その前を狛犬が護っていた。
由緒書きにある八幡塚(神輿塚)だろうか。

創祀年代は不詳。八幡塚村の八幡社と呼ばれ、
かつての八幡塚・高畑・古川・町屋・道塚・雑色六ヶ村(六郷)の総鎮守。

社伝によると、天喜五年(1057)、
源頼義・義家の父子が当地に軍勢をとどめ、
大杉に源氏の白旗をかかげ、石清水八幡に武運長久を祈って出立。
見事、前九年の役に勝利し、報賛のためにその分霊を祀ったのが当社の創祀。
ゆえに、この杉を「白旗の杉」と呼び、当社を御旗山と称して
近郷の崇敬を集めた古社。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 2:10 PM

巖谷門神社 (小矢部市)

富山県にある、巖谷門神社(小矢部市) を掲載しました。

北陸本線の石動駅の北西、道なりに4.5Kmほどの矢坂に鎮座。
32号線を北上し、74号線に入って西へ。
74号線から324号線へ入って岩屋堂川沿いの道をさらに西へ。
しばらく寂しい道を進むと、道路の右手(北側)に鳥居がある。

境内は矢部山の南東麓の丘の上。
鳥居の脇には、自然石の上に社号標。
鳥居をくぐり、参道階段を登ると社殿のある境内。
社殿は瓦葺入母屋造で、トタンの雪囲いが付いている。

参拝は10月の午後。というか夕方近く。
社号の「巖谷門」から、もっと岩岩した神社を想像していたが、
階段を上がると、木々に囲まれた丘の上の境内は暗くて静か。
逆光のせいで黒い社殿のシルエットと、苔むした参道。
人里離れたという雰囲気のある神社。

創祀年代は不詳。
式内社・荊波神社の論社の一つ。
鎮座地名の矢波が荊波、矢波からの変化ということだろうか。

『式内社調査報告』によると、当社はもと白山社といい菊理姫命を祭神とする。
『富山県神社誌』には、日山社と記されているが、これはたぶん誤字。
正徳二年の『書上申帳』には白山権現と記されている。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 5:07 PM

日枝神社 (富山市)

富山県にある、日枝神社(富山市) を掲載しました。

富山県富山市にある。
富山駅の2Kmほど南の山王町に鎮座。
41号線と市電の走っている43号線の間に境内がある。

市街地の神社なので、徒歩ならばどの方角からでも境内に入れるが
車の場合は、境内北側に駐車場がある。
ただし、境内北の道は一方通行のようで、ちょっと迷った。

参道入口は北向き。
参拝はお昼頃だったため、太陽に向かって進む。
石鳥居の脇に社号標があり「神社本廰別表神社 日枝神社」と刻まれている。
鳥居をくぐり参道を進むと突き当たりに手水舎。
手水舎から左手奥に進むと、境内社の麄香(あらか)神社。
右手に進むと社殿のある境内で、正面に大きな拝殿がある。
ということで、当社社殿は東向き。

さすがに大きな神社で、
拝殿には鈴緒(参拝用の鈴の縄)が七本ぶら下がっていた。
朱の拝殿はコンクリートで銅板葺入母屋造。正面に唐破風が付いている。
残念ながら本殿は確認できなかったが資料によると流造らしい。

参拝は十月後半の晴天の正午頃。
拝殿の前に初宮詣らしき家族がいて、交互に写真を撮ったり
ビデオカメラを回していたので、映らないように木陰に佇んでしばらく待つ。
待っている間に、次に参拝予定の神社の資料を読んだり
道順を確認してりして、御朱印をいただくのを忘れた。

創祀年代は不詳。
山王さんとも称される、富山県の県社。

天正八年(1580)佐々成政が富山城主となり
当社を深く崇敬し、山王町に遷座。

天正十五年(1587)前田利長が富山城主となって以後、
社地を寄進し、社殿を造営。富山城下の産土神として
毎年四月二十二日を以て例祭日とし祭祀を厳修したが、
天保二年(1831)火災により悉くを焼失した。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 6:05 PM

上野国一社八幡宮 (高崎市)

群馬県の上野国一社八幡宮(高崎市)を掲載しました。

群馬県高崎市にある。
信越本線・群馬八幡駅の西1Kmほどの八幡町に鎮座。
18号線の八幡大門交差点から北へ入ると、
赤い大鳥居が建っていて、扁額には「八幡宮」。

大鳥居から北上(正確には北北西)し、
信越本線の線路を越えて、突き当たりに当社境内の丘。
丘の麓に神門があり、神門の前には「上野國一社八幡宮」と刻まれた社号標。

神門の前で道路が左右に分かれており、
左手に進んで坂道を登ると、社殿のある境内の左側、駐車場に到着する。

徒歩の場合は、神門をくぐり参道階段を登ると、石鳥居があり、
石鳥居の扁額には「八幡大御神」。奥にもう一つの神門がある。
『平成祭データ』には、神門は元は仁王門であったとあるが、
どちらの神門のことだろうか。あるいは両方か。

境内の参道を進むと、右手に赤い神楽殿。
左手に手水舎と赤い大きな鐘楼があり、
参道正面に、どっしりと大きな拝殿がある。

拝殿は銅板葺の入母屋造。
拝殿の中に入り、右手奥に進むと本殿の横に出る。
本殿は極彩色の権現造で、像や龍、獅子などの彫刻が美しい。

参拝は11月の晴天の午後。
空は真っ青で、広い境内はとても眩しかった。

社伝によると、天徳元年(957)、京都の石清水八幡宮から勧請。
当社の正式名は「八幡宮」だが、「やわたの八幡さま」と呼ばれ、
また、古くから一国一社の八幡宮として広く崇敬されていた。

永承年間、源頼義が奥州征伐のおり、当社にて戦勝祈願。
康平年間、頼義の子・源義家(八幡太郎)が戦勝の奉賛として
社殿を修築し、以来、源氏の氏神として崇敬され、
源頼朝は鎌倉幕府開設にあたり神田百町を寄進した。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 9:03 PM