脇子八幡宮 (朝日町)

富山県にある、脇子八幡宮(朝日町) を掲載しました。

富山県の朝日町にある。
北陸本線・泊駅の東2Kmほどの横尾に鎮座。
城山(149m)の西麓にあって、
8号線の横尾交差点に参道入口があり、東へ入る。

参道を進むと石の神明鳥居。
鳥居をくぐり、参道を進み、階段を上ると両部鳥居があり
鳥居扁額には「八幡宮」とある。
さらに参道階段を上ると社殿のある境内。

拝殿は瓦葺入母屋造。拝殿の後方奥にある本殿は神明造。
社殿の右手に鳥居が立っており、
奥の階段上には境内社の神明宮が祀られている。

参拝は10月初旬。天気の良い日の早朝。
深夜に長野を出発し、糸魚川で日の出を迎え、
8号線を西へ進んで到着した。

創祀年代は不詳。
社伝によると、大宝二年(702)、高向朝臣大足が当国へ下向し、
越中・越後の国境鎮護の神として、城山(脇子山、八幡山)に鎮祭した古社で、
『日本紀略』に寛平元年八月二十二日、従五位下を叙せられた脇子神とある式外社。

治承四年(1180)、後白河天皇第三皇子である以仁王による
平家追討の令旨によって挙兵した木曽義仲は、
寿永二年(1183)、越中侵攻の際に、城主・宮崎太郎長康と共に、
以仁王の死後出家して越前国に逃れていた以仁王の第一王子・北陸宮を
この城に迎え入れて還俗と同時に元服させ、御所を作って
越中侵攻の足がかりとし、当社にて平家打倒の戦勝祈願が行なわせた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 11:16 PM

金毘羅神社 (瑠璃光寺)

山口県の金毘羅神社(瑠璃光寺)を掲載しました。

山口県山口市にある。
山口駅の北2Kmほどの香山町に鎮座。
というより、観光名所として有名な瑠璃光寺境内にある小さなお宮。
9号線から北へ入った場所、山口県庁の北にあり、
瑠璃光寺を中心とした香山公園の中にある。

瑠璃光寺に入ると正面に本堂があり、右手に池。
池の奥に五重塔が美しい。

瑠璃光寺の右手の丘の上、池を見下ろす位置に祠が見える。
参道階段を上って行くと、当社の鳥居が立っており、
「金毘羅大権現」と染められた幟が立ち、流造の祠がある。

境内由緒によると、貞治三年(1364)、大内氏が航海の安全を祈願して
琴平の金刀比羅宮を鎮守の神として勧請したのが当社の起源。

瑠璃光寺の始まりは、
南北朝時代の武将・大内義弘によって創建された香積寺。
大内義弘が応永の乱で足利義満に敗れて戦死したため、
弟の大内盛見が兄を弔うために五重塔を建設。
嘉吉二年(1442)に完成したもので、塔の尖端まで31.2メートル。
現存する五重塔の中で10番目に古く、
法隆寺(奈良県)、醍醐寺(京都府)と並び、日本三名塔と言われているらしい。

山口市内を観光しながらブラブラし、中原中也記念館を出た後に、
瑠璃光寺を見ていないことを思い出して参拝してみた。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 10:49 PM

小舟神社 (富岡市)

群馬県の小舟神社(富岡市)を掲載しました。

群馬県富岡市にある。
上信電鉄上信線の東富岡駅の南500mほどの富岡に鎮座。
254号線から南へ2本入った東西に走る道路に面して
北向きに境内入口があり、「貫前神社境外攝社 舊祓戸 小舟神社」と
刻まれた社号標が立っている。

境内に入ると赤い鳥居が立っており、
鳥居扁額には「正一位小舟大明神」とある。

参拝は、晩秋の十一月の午後。
境内の木々は紅葉し、地面には枯れ葉が散って美しい。

鳥居をくぐると左手に境内社の八坂神社と手水舎。
参道脇に石灯籠が並び、右手には夫婦杉。
参道を進んで、右にまがると社殿がある。よって社殿の向きは東向き。
参拝者は西を向いて参拝することになるが、
これは当社の西に鎮座する、貫前神社を遥拝しているようでもあり
さらに西に聳える荒船山を遥拝しているようでもあるのが面白い。

拝殿の扁額には「小舟神社」とあり賽銭箱には三つ巴紋。
拝殿後方の本殿は覆屋の中にあるが
拝殿の扉から覗くと、奥に本殿を見ることができる。
その本殿の前、通常は社号や祭神名が掲げられている位置に
以下の合祀社の名前が記されていた。
稲荷神社、三峰神社、鷺神社、雷電神社、神明宮。

社伝によると白鳳七年の創祀。
『上野国神名帳』に「従五位 小舩明神」とある古社。

以前はもっと東、高田川と鏑川の合流点に近い場所に鎮座しており、
入口の社号標にある通り、もとは上野国一之宮貫前神社の境外摂社で、
貫前神社の祓戸とされていた神社。
これは、川から小舟で参拝するイメージや、
貫前神社参拝前に、小舟で川に入って禊をするイメージを想起させて面白い。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 7:53 PM

大宮巌鼓神社 (東吾妻町)

群馬県の大宮巌鼓神社(東吾妻町)を掲載しました。

群馬県の東吾妻町にある。
吾妻川に四万川が合流する地点に近く、
吾妻線・群馬原町線の北500mほどの原町に鎮座。
146号線の西側、小学校の隣り、234号線を挟んで境内がある。

境内入口は南側(やや西寄り)。
道路に面して朱の鳥居が立っており、
鳥居の右脇に「郷社大宮巌鼓神社」と刻まれた社号標。

鳥居をくぐると、参道左手に大宮会館という建物があり、右手には駐車場。
参道を直進して十段程度の階段を上ると境内。
境内入口には石鳥居があり、鳥居の右手に手水舎がある。

参道を直進すると社殿。
境内左手に社務所。右手には神楽殿。
拝殿は入母屋造。黒っぽい褐色の社殿だが
屋根の下、垂木や茅負が鮮やかに朱に塗られており「粋」な雰囲気で面白い。

拝殿の扁額には「正一位大宮巌皷大明神」。
拝殿の後方に朱の垣に囲まれて春日造の本殿がある。

参拝は晩秋十一月の晴天の日。
日射しが強く、木漏れ日の境内はコントラストが強かった。

一般に、吾妻の語は、碓氷の嶺に立った日本武尊が、見渡す雲海から、
海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて
「吾嬬者耶」と嘆かれたとことに由来するとされているが、
当地では以下の話となっている。

当地の長者の娘に、上妻姫という美しい姫がいた。
日本武尊が東国平定の帰路、姫の美しさに心奪われ、姫は尊の子を宿す。
尊は、姫に「お前は私の妻である」「今日からは吾妻姫と名乗るように」と言い
「吾妻や妹背と契る言の葉も これぞ別れの形見なるらん 」と歌を残して都へ戻る。
信州との境の峠(鳥居峠)で姫を偲び「吾嬬者耶」と嘆いたという。

この吾妻姫(上妻姫)の生んだ子が大若宮彦といい、
大宮とか巌鼓尊と呼ばれて祀られたのが当社であるという。

また、四万川の上流にある稲裹(いなつつみ)神社が
当社の巌鼓(いわづつみ)と関係があるらしいが、詳細は確認していない。
「三代実録」に元慶四年従五位下を授けられた稲褁地神の名が記されているが、
稲裹神社あるいは当社と関係あるのかもしれないが、それも未確認。



A. 掲…掲載 — gensyoushi 3:39 PM